「郷土の鎮守様〜富士見市・その1〜」
<平成17年2月>
「その1」
「勝瀬ノ榛名神社」/「東大久保ノ阿蘇神社」
「上南畑神社」/「下南畑ノ氷川神社」/「下南畑ノ八幡神社」
「その2」
「諏訪ノ氷川神社」「富士見諏訪ノ諏訪神社」「鶴馬ノ氷川神社」
「その3」
「上水子ノ氷川神社」「下水子ノ氷川神社」「水子ノ八幡神社」「針ヶ谷ノ氷川神社」
家を出発する時には晴れていたが、三芳を経由して富士見に到着したら曇り空。まあ、そんなときもあるさ。志木市住民にとって富士見は隣市ではあれど間に柳瀬川と浦所バイパスをはさんでいるからか、ちょっと疎遠な感じもする。
恐らくは志木の足立郡と富士見の入間郡の違いなのだろう。
それでも、郷土の鎮守様には変わりない。一生懸命に自転車を漕いで神社参拝なのだ。
「勝瀬ノ榛名神社」<村社>
(埼玉県富士見市勝瀬鎮座)
御祭神:榛名権現
埴山姫命・豊受姫命
孝昭天皇25年に厳島に上陸した摩耶夫人が、当地に移って祀られたという由来が伝わっている。
榛名様と稲荷様と薬師様の三方が船(今の御舟山)できた時に、船が沈んでこの地に泳ぎ着いた。そこで「御舟山」に船山弁財天(現・境内社)がまつられた、とされている。
明治5年村社。明治40年に駒林「八幡社」、稲荷窪「稲荷社」、御舟山「弁財天社」「鷺森社」を合祀
氏子地域は勝瀬地区全域。
社地遠望 |
榛名神社境内 |
拝殿 |
本殿 |
左:本殿 拝殿と本殿の間が比較的距離がある社殿構図。 |
鎮座地は東武東上線ふじみ野駅から東に1.5キロ。勝瀬小学校と中学校の間に鎮座している。私が訪れた時はちょうど鳥居前で「伐木」作業が行われていたため、鳥居の写真が撮れず。まあ、そんなときもある。
拜殿前に堂々とそびえる狛犬と岩がとにかく印象深い。社地は樹木に覆われており、典型的な神社らしさを感じることが出来る。
実は三芳町を経由してきたうえに途中の大井町で道にまよった為に4キロほど自転車で漕いできた神社。疲れた身体を休ませるにはもってこいの環境でもあった。
「東大久保ノ阿蘇神社」<村社>
(埼玉県富士見市東大久保鎮座)
御祭神:阿蘇比女命
当地は荒川と新河岸川に挟まれた低地であり、もともとは大久保と呼ばれていたが、入間郡大久保との区別のために東久保と呼称。
頻繁に水害を被る地区であったため、開発治水の神とまつられ、時代が下るにつれて村の鎮守として信仰されるようになった。
当社境内の隣接地が戦国期に当地を領有していた大久保氏(大窪)の屋敷跡であったことから、同氏の守護神であったとされる。
関東地方に阿蘇神社が祀られる例が少なく珍しい神社。本山修験道十玉院が当社の勧請に関わっていたとされる。
明治期に村社列格。
氏子地域は東大久保。
正面 |
参道 |
境内風景 |
社殿 |
勝瀬ノ榛名社からは富士見川越有料道路と新河岸川を東に越えた、約800メートル先に鎮座。福岡高校の近くでもある。社地はかなり開放的な様相で、よく整えられており、非常に綺麗にまとまった神社であった。
関東でも珍しい阿蘇神社、なんとなくではあるが感慨深いものがある。
「上南畑神社」<村社>
(埼玉県富士見市上南畑鎮座)
水越明神社。稲荷社。
上南畑地区は荒川と新河岸川に挟まれた低地であり、もともとは難波田と記載。しばしの大洪水にみまわれたために地名が災いしているとし、安永元年に幕府に申し出て南畑と改めている。
難波田の呼称は保元平治の乱のころ、武蔵七党のうちの村山党を先祖とする難波田氏が当地に居住したことにはじまる。
創建年代は明らかではないが、室町時代中期にはすでに祭祀されていた。
古来は、水越明神社と呼称。
明治五年村社列格。明治41年に近隣の明石氷川・雷電・稲荷・蛇木・須賀を合祀し、明治42年に社号を上南畑神社と改称。
明石氷川神社の旧拝殿は当社の神楽殿に使用されている。
当社に合祀された明石氷川社は柿本人丸を祭神としていた。兵庫明石の柿本神社にちなんだとされるが伝承不詳。当社の近くを流れる新河岸川上流に柿本人丸子孫とされる綾部一族が奉斎していた人丸神社(川越氷川社境内社)があり、その関係も推測できる。
氏子地域は上南畑地区。
正面 |
参道 |
拝殿 |
社殿 |
狛犬 |
狛犬 普段の私は狛犬の写真を格別に掲載していないけど この狛犬はかなり気にいったので掲載。 ・・・狛犬写真載せるべきなのだろうか。 比較的撮ってはいるのだが・・・。 |
阿蘇神社から県道113号線を1.2キロほど南下。新河岸川を西側にする地に鎮座。さほど奧行きのない神社であれど、鶴翼的に横の広がりを感じるために狭さは格別には感じない。
社殿前の狛犬にしばし見とれてしまう。彩色が施されており、なかなかかわいげがあった。
「下南畑ノ氷川神社」
(埼玉県富士見市下南畑鎮座)
素戔嗚尊
当社は富士見市東部、荒川と新河岸川に挟まれた低地に鎮座。付近には扇谷上杉氏に仕えた難波田氏の館がある。
創建は、文安元年に大宮高鼻の氷川神社から分霊したと伝えられている。
氏子地域は下南畑の旧山形地区。
正面。実は右の建物は創○学会・・・最悪の立地環境だ・・・ |
参道 |
社殿 |
本殿覆殿 |
さらに500メートルほど南下すると鎮座しているのが氷川神社。鶴瀬駅からは北東2キロ。
困ったことに、神社入り口の脇には創○学会の建物がある。よりによって神社の脇になくても良いだろうに、と少々気分を害しながら、そんな立地環境にある神社を不憫に感じながら参拝。
当社も社地後方に新河岸川がながれる地。参道は細長く、そして社地後方の広がりでもって参道からの圧迫から開放される気配。
「下南畑ノ八幡神社」<村社>
(埼玉県富士見市下南畑鎮座)
御祭神:応神天皇・神功皇后・姫大神
当社は難波田城の鎮守として祀られたとされている。創建は応永年中。
応永7年(1400)に足利満兼が当地を鶴岡八幡に寄進して社領となり、分霊を奉斎したとされている。
当社の南方500メートルのところに難波田弾正憲重が築城したとされる難波田氏館があり、難波田氏が特に崇敬していたという。
明治5年村社列格。
大正元年に町田の村社「阿蘇社」、蓮田の無格社「天神社」、木染の無格社「天神社」、新田の無格社「妙見社」を本殿に合祀。
氏子地区は下南畑、南畑新田。
下南畑地区の鎮守の多くは大正元年に合祀された。ただし下南畑小字山形地区は当社への合祀を拒んだために小字で「氷川神社」を維持している。
正面 |
境内 |
本殿 |
境内 |
下南畑ノ氷川社からは北東に1キロ。ちょど真ん中に「難波田城趾」がある。
位置関係でいうと難波田城趾から見て北東が「八幡社」、南西が「氷川社」、北西が「上南畑社」となる。
鶴瀬駅からは北東に約3キロ。南畑城趾までは南に約500メートル。
静かに風が吹き抜ける。約800メートル後方には荒川が控えており、低湿地だなあ、という感じる。付近には畑も多く、開放的すぎる気配。それでも神社境内には樹木が固まっており、なぜか摂末社付近は非常に青々と整然と緑が植えられていて、面白い。
参考
各神社由緒案内等
「富士見市史 資料編7 民俗」平成7年3月/富士見市教育委員会
「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」昭和61年4月/埼玉県神社庁神社調査団編/埼玉県神社庁