「郷土の鎮守様〜入間郡三芳町編〜」

<平成17年2月>

竹間神社」/「木宮稲荷神社/「北永井ノ稲荷神社

好評かどうかはわからないが、郷土の鎮守さまも徐々に範囲拡大。
今回は三芳町編。三芳町のほんの一部ですが。私は三芳を地元(地元は志木なのだ)としているわけではないので、なかなか全てを網羅するのが難しいので、その点は御了承を。


「竹間神社」<旧村社>     
(埼玉県入間郡三芳町竹間沢鎮座)

御祭神:八意思兼命

武蔵野台地の東北端に鎮座。地名は地区中央に竹林があり清水が湧きだして沢になっているとこに由来する。
創立年は不詳。地区名主の池上家の祖である喜平が元禄2年に草分けとして入植したさいに、鎮守を祀るために池上本門寺日照を招いて「三十番神」勧進したとされる。ゆえに「三十番神社」とも。日本中の大社30社を祀った神であり日蓮宗における法華経守護の神。
明治以降に改めて「竹間神社」として八意思兼命を祀る。
明治五年に村社。明治四十二年に藤久保稲荷との合祀する話がでるが、双方の反対により合祀中止。
本殿は明治5年に3年の歳月を費やして再建。しかし」昭和55年に原因不明の出火によって社殿炎上。現在の社殿は昭和55年の再建。
氏子地区は竹間沢全域。また当地域は稲荷信仰がさかんであり、地区ごとに何十世帯かで稲荷小祠がまつられている。

竹間神社 竹間神社
竹間神社 左上:境内入口

上:拝殿

左:社殿横姿

国道254号(浦所バイパス)線、そして新河岸川の北側、脇にそれた高台。東武東上線みずほ台駅から1.5キロ南東の方向。私は家から自転車を漕いでやってきたのだが、付近には確かに小さな稲荷小祠も多く、また付近には寺院もあり、非常に落ち着いた土地柄を感じる。住宅地ではあるが畑や自然とのバランスもとれている環境。100メートル南西には「三芳町立歴史民俗資料館」もあり、地域の文化度の高さもうかがい知ることが出来る。


「木宮稲荷神社」<旧村社>     
(埼玉県入間郡三芳町藤久保)

御祭神:宇賀豊受比売命

当村の開発は正保年間から元禄年間にかけておこなわれたとされる。藤久保の由来は地区にある窪地に大きな藤の木があったことによるという。
当社は寛文元年に当地を領有していた中山治左衛門が大阪在藩のときに稲荷の神が藤久保に下るという夢を見たことから、紀州の良材を当地に送って稲荷社を建立したことにはじまるとされる。
以来、木宮(きのみや)と称された。おそらくは当社の創建には熊野修験が関わっているであろうとされている。
明治5年村社列格。
明治40年に旧別当東乗院境内の八坂社・浅間社を境内に合祀している。
氏子地区は藤久保。

木宮稲荷社 木宮稲荷社
木宮稲荷社 左上:正面

上:参道

左:社殿

竹間神社からは1.5キロ北西。国道256号線(川越街道)を北上し「ケヤキ並木」区間沿いに鎮座。川越街道の正面に位置。東武東上線みずほ台駅からは南西に2キロ地点。

竹間神社から自転車で北上した私は、幹線道路を快調に漕ぎ、ケヤキ並木にひと息入れて到着。多少、正面に窮屈さを感じるも、境内は意外と開放的。国道の喧騒さとはうってかわってのんびりとしていた。


「北永井ノ稲荷神社」     
(埼玉県入間郡三芳町北永井)

御祭神:倉稲魂命

柳瀬川右岸、武蔵野台地の北部に鎮座。
永井村の開村は万治年中。延宝3年に南北分村したという。南北分村時に村の開拓成功と作物の豊穣祈願の為に稲荷社を祀ったことにはじまる。
氏子地域は北永井地区。末社に八雲神社(スサノオ尊)があり、山車を要する夏祭りが盛大に執り行われる。

北永井ノ稲荷神社
正面
北永井ノ稲荷神社
拝殿
北永井ノ稲荷神社
境内風景
北永井ノ稲荷神社
左:八雲社、右:住吉八幡社。末社。

木宮稲荷社からさらに国道254号(川越街道)を北上。約2.8キロ北西。川越街道を2キロ北上してから約800メートル西側に入り込んだところに鎮座。東武東上線鶴瀬駅からは2.5キロ西側。
このあたりは言い方が悪いが「区画整理がおおざっぱ」。つまり江戸期以降に開拓された「三富地区」に隣接する地域故に、比較的直線区域が多い。住宅地と畑、そして工場がバランス良く配置されている印象。
神社はやはり土地的な開放気配にあふれた様相。

このあと私は「富士見市の神社」にむかったはずだが、なぜか道に迷って「大井町」を迷走する。実のところ「大井町の神社」は下調べしていなかったので、かなり時間的ロスをしてしまい、天候もあやしくなってしまったが、これは余談。


ちなみに「三富」に分類される「上富」「中富」「下富」地区のうち「三芳町上富」の産土神神社は「神明社」となっている。

「神明社」   
上富は近世期に開発された三富新田のひとつ。入植者の鎮守として中富に「毘沙門社」が祀られていたが、明治の神仏分離によって毘沙門社は別当多門院の管理となり毘沙門堂と改められた。
そこで神明社が三富の鎮守としてまつられた。明治初年に神社変更の話が出た際に、毘沙門社の社地裏手に小祠があるのが発見され、そこに神明社と記載されていたことに始まる。
氏子地域は三富地区。

ところが「多門院」は現在の三芳町とギリギリで隣接する所沢市中富地区にあり、神明社もその「多門院」に隣接して鎮座している。
そんなわけで、完全に「神明社」は「三芳町」の範囲外であったために見落としてました。

将来的に参拝することがありましたら写真を掲載しますが未訪問なため、文章のみで失礼します・・・。


参考
各神社由緒案内等
「三芳町史・民俗編」平成4年3月
「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」昭和61年4月/埼玉県神社庁神社調査団編/埼玉県神社庁



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