「郷土の鎮守様」 〜埼玉県新座市の神社・その2〜

<平成16年5月記>

目次:
その1:馬場ノ氷川神社/武野神社/西堀ノ氷川神社

その2:野火止ノ若宮八幡神社野火止ノ氷川神社野火止ノ神明神社大和田ノ氷川神社



「野火止ノ若宮八幡神社」    
(新座市野火止3丁目鎮座)

祭神:誉田別命

由緒:
社記によると正平九年(1354)に愛宕神社がまつられ、延宝元年(1673)に武蔵国池上から八幡社を勧進し愛宕社に合祀。池上からの分霊ということで「若宮」が冠せられたのだろう。一説に創建は寛文元年(1661)ともされている
当社に日蓮宗番星寺が隣接することから、村の鎮守であり当社別当であったとされている。日蓮宗では八幡神が語法神とされていることからもつながりが予想される。
明治期に村社列格。昭和三年に拝殿を新築、本殿を改築している。
氏子地域は菅沢1−2丁目、あたご1−3丁目、野火止3丁目、本多2丁目、西堀3丁目の一部。

野火止ノ若宮八幡神社 野火止ノ若宮八幡神社
野火止ノ若宮八幡神社 野火止ノ若宮八幡神社

西堀ノ氷川から北上2キロ。「野火止若宮八幡」に到着。この地は「平林寺」のほど近く。歴史情緒の気配を辺りは漂わせている環境。境内は正面から直角に折れており、鳥居の左手に社殿が配置されている。


「野火止ノ氷川神社」     
(村社・新座市野火止8丁目鎮座)

祭神:素戔嗚尊

由緒:
江戸初期の河越藩主であった松平信綱によって承応二年(1653)以降に開発された野火止新田は承応四年に完成をみた。当地はその中でも川越街道沿いの野火止宿として河越松平氏の菩提である平林寺ともどもに賑わってきた。

当社の創建は承応2年(1653)のこととされ、野火止開発の守護神として奉斎されたものであろうとされる。
明治期に村社に列格。現在の本殿は明治6年(もとは平林寺境内の弁天堂)、拝殿は同39年、幣殿は大正14年の建立。昭和39年に社殿大改修を行っている。

野火止ノ氷川神社
野火止ノ氷川神社
野火止ノ氷川神社
野火止ノ氷川神社

野火止ノ若宮八幡から1.5キロ北上し交差する川越街道を南下して1キロ。約2.5キロの移動で到着。野火止ノ氷川は川越街道(国道254)にほどちかい。それでも、その国道の喧騒さから離れ落ち着いた気配を漂わせる。


「野火止ノ神明社」    
(村社・新座市野火止5丁目鎮座)

祭神:天照大神・倉稲魂命

由緒
当社は江戸初期の河越藩主である松平信綱によって開発された野火止新田に鎮座している。
明治社格では村社。
明治40年7月、村社であった北野ノ稲荷社を合祀。
氏子範囲は野火止5−6丁目、北野1−3丁目、東北1丁目の全地域と、野火止2−4丁目、東北2丁目、本多2丁目の一部。

野火止ノ神明神社 野火止ノ神明神社
野火止ノ神明神社 野火止ノ神明神社

野火止氷川から、川越街道を北上し、2.5キロ。JR新座駅のほどちかくに鎮座。境内にはゲートボール場が設けられており、地元民が掃除などを行っている微笑ましい光景。もっとも境内拝殿前でゲートボールを行うことは微笑ましい訳ではないが。



「大和田ノ氷川神社」    
(村社・新座市大和田4丁目鎮座)

祭神:素戔嗚尊

由来:
大和田は柳瀬川右岸に位置し、武蔵野台地が一段低くなった平地にひろがる地域。大和田の地を通過する鎌倉街道は当社および善光明寺のすぐ近くに確認されており、鎌倉期には奉斎されていたことが確認されている。
社伝によると創建は延暦21年(802)の創建といわれ、大宮氷川と府中国府の間を結ぶ地でもある。

江戸期には川越街道が設定され膝折宿から大井宿にいたる宿駅として、大和田宿がたてられた。鎌倉街道と交差するかたちでもうけられた川越街道は当社から離れて設定されたために社頭付近の集落は荒廃し、これを憂えた善光明寺の法印であった覚円らを中心に享和三年(1803)に本殿が再建された。
明治社格では村社。

大和田ノ氷川神社
大和田ノ氷川神社
大和田ノ氷川神社
大和田ノ氷川神社
大和田ノ氷川神社
大和田ノ氷川神社
大和田ノ氷川神社
大和田ノ氷川神社

野火止神明社から1.5キロ。境内は広め。参道を歩むと拝殿の向こうに風格を漂わせる本殿があり、その後には幼稚園。隣には善光明寺があり鎌倉街道の名残という気配。
本殿は精巧な彫刻が施されており、近所にこれほどのやしろがあることをしらなかった私は、新たな驚きを感じる。実は大和田はかなり近いのだ。

大和田の地から柳瀬川沿いにすすめば、志木市に到達する。志木の住民たる私は柳瀬川土手のほど近くに居住。あとはのんびりと川を眺めながら家路につく。

志木(志木編宗岡編)・朝霞(その1その2)・和光・新座(その1・その2)と走ってきた「郷土の鎮守様」も一段落。文化圈経済圏的に埼玉南西部の地域につちかわれてきた四市は合併計画があるぐらいに密接な関係。志木の住民、朝霞の高校に通った私は、この地の神社をみつめる機会がなにより新鮮であった。

次は柳瀬川を越えて「富士見市」に向かうか、荒川を越えて「さいたま市」にむかうか、それはわからない。ただ郷土に培われる鎮守にも目を向けて行きたいとは思う。


<参考文献>
『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉郡編 平成10年3月 埼玉県神社庁
神社由緒書及び案内看板。



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