「郷土の鎮守様」 〜埼玉県朝霞市の神社・その1〜

<平成15年10月記>

目次・その1
宮戸神社」/「内間木神社」/「下内間木ノ氷川神社」/「田島ノ神明神社」/「浜崎ノ氷川神社

目次・その2
「岡ノ氷川神社」/「溝沼ノ氷川神社」/「膝折ノ氷川神社」


今回は特別番外編・第二弾です。朝霞は私にとっては地元同然。志木市民ではあれど高校時代は朝霞に通っていたので馴染みも深し。
おなじ地勢、おなじ文化圈、そして郷土圈。徐々に「郷土の鎮守様」も拡大です。



「宮戸神社」     
(村社・朝霞市宮戸4丁目鎮座)

祭神
伊弉諾尊・伊弉冉尊(熊野神社)
面足尊(天津神社)/稲倉魂命(稲荷神社)/高良玉垂姫命(駒形神社)

もともとは「熊野神社」。創建年代は明らかではないが、康生二年(1456)に熊野の御師が新倉郡で活動しており、熊野信仰の広がりを知ることができることから、創建年代も村内の熊野信仰がひろがり勧請されたものか。

別当寺は薬王山仏眼寺。明治初年に分離し、宮戸の鎮守「熊野神社」として村社列格。

しかし明治40年に田島村社神明社とともに浜崎の氷川神社に合祀され、三社の村社にちなんで三柱神社とされてしまう。
旧地の社殿は三柱神社遙拝所としてのこされたが、昭和16年の開戦とともに戦時関係の行事を遠距離で合祀先の浜崎でおこなわなくてはいけなかったために不便をきたした。
地元では新たに神社を建立しようとするが、公認されるのが難しいと判断。隣町の宗岡村(現在の志木市宗岡)の袋・下ノ谷地区の無格社が合祀対象となっていることの検討策として宮戸と袋と下ノ谷の利害が一致し、昭和17年に宗岡村袋の天津神社を朝霞宮戸の三柱神社遙拝所にむかえ、翌年に宗岡村下ノ谷の稲荷神社を天津神社に合祀したのを機に「宮戸神社」に改め村社列格。
宮戸地区は村社三柱神社の氏子でもあるために浜崎地区の同意を得るために、宮戸・三柱ともに氏神として崇敬することを約束。戦後には宮戸地区の念願であった三柱神社からの熊野神社返還をうけ、名実ともに再興。このときに宮戸地内から駒形神社が本殿に合祀され、そのほかの小社が境内社として合祀された。
昭和48年に社殿改築。

宮戸神社 宮戸神社
宮戸神社 宮戸神社

明治期には、宮戸神社専任の神職は不在であったが天明稲荷社の隣に社守として居を構えていた高橋源左衛門が信心篤く、その生涯を天明稲荷社と熊野社の再興にささげ、以来高橋氏が奉仕している。


「天明稲荷神社」(朝霞市宮戸三丁目)     
当地では稲荷信仰が盛んであり、家々でも稲荷社を祀っているところが多く、宮戸神社神職家である高橋家にある天明稲荷社もそのひとつ。
天明稲荷社の創立はあきらかではないが、もとは柳澤清五郎の座敷神。柳澤家の祖先が山林に白狐の死骸を発見し、なみの野狐ではないことから懇ろに供養し祠をもうけたことにはじまる。
柳澤家は中流農家であったが、柳澤清五郎は料理の素養があり、農事を放り出して料理業を行っていた。明治10年ごろに一攫千金を夢見るが事業に失敗し、明治21年に主祭整理のために稲荷社のある山林を志木町の高須庄吉に売却。
翌明治22年に清五郎の妻が高橋源左衛門にある老人が会いたいといっていると告げ、高橋源左衛門が老人に会いに行くと、その老人は神懸かりとなって
「我は天明年間(1781−89)に妻恋稲荷から箭弓稲荷に遣わされた白狐である。故あって柳澤家を守護する稲荷となったが、稲荷の屋敷をほかに売却したことはまことに都合が悪い。速やかに買い戻すべし。」
と告げられ、高橋源左衛門は戦慄し、買い戻しの運動を開始。その後、稲荷社は高橋源左衛門の所有になり、大正5年に「天明稲荷社」と命名。
天明稲荷社の神徳(火防・盗賊除け・失物発見など)は広域にわたっており朝霞の宮戸・田島・内間木・岡や志木、蕨、新座、そして東京の王子・豊島・大泉などで講社が結ばれていた。

天明稲荷社
天明稲荷
天明稲荷社
天明稲荷



「内間木神社」     
(村社・朝霞市上内間木鎮座)

祭神:日本武尊・倉稲魂命・市杵嶋姫命

内間木は荒川と新河岸川に挟まれた島状の低湿地帯であり、河川の氾濫でたびたび被害をうけてきた。元禄期以降(1688−1704)に新田開発がすすみ、下内間木と新開地の上内間木が成立。
上内間木には上内間木から勧請したとされる「蔵王権現社」が鎮座していたとされ、創建年代は不明だが元禄期以降の開発時に分霊とされる。おそらくは蔵王権現(修験の開祖は役行者)という修験道の偉業による氾濫の鎮めを期したものだろうか。

明治初年に社名を内間木神社と改め、村社列格。明治40年に無各社二社(稲荷社・厳島社)を合祀。当社は今も通称「権現様」として親しまれている。
主祭神の日本武尊は社名改称時に定められたものとされる。ほかに倉稲魂命と市杵嶋姫命を祀るが、この二柱は合祀時に追加された祭神。氏子地域は上内間木地区。
昭和57年に台風によって社殿が倒壊したために社殿を新築している。

内間木神社 内間木神社
内間木神社 内間木神社



「下内間木ノ氷川神社」    
(村社・朝霞市下内間木鎮座)

祭神:素戔嗚尊

西を新河岸川。東を荒川がながれ、南で両川が合流するという地帯で水害に悩まされてきた地。江戸期に新田開発がすすみ、宝永4年(1707)に開発新田が上内間木。本村が下内間木となり分立した。真言宗西福寺(寛永20年・1643創立)の境内社として祀られていたのが当社であり、村の治水神として勧請か。寺の境内社にしては規模が大きく、化政期には村の鎮守として崇敬。

明治初年に別当から分離し、村社列格。氏子地域は下内間木地区。
境内には石灯籠がふたつあったが、大正2年の荒川河川改修で下内間木から分断されて戸田市に編入された重瀬地区の山王神社に一基をわけたために、現在は境内には一基しかない。
昭和43年に現在の社殿が建立。

下内間木ノ氷川神社
下内間木ノ氷川神社
下内間木ノ氷川神社
下内間木ノ氷川神社



「田島ノ神明神社」     
(村社・朝霞市田島2丁目鎮座)

祭神:天照皇大神・面足尊

当地は東が新河岸川。西と南を黒目川に囲まれるという低湿地帯ゆえにたびたびの水害に悩まされていた地。田島という地名も川沿いの島のような地の水田という意である。
もともとは台地状の久保(朝志ヶ丘一丁目付近=現在の村山病院付近)に鎮座していたというが、いつのころか現在地に遷座。
明治初年に別当富善寺(元和3年・1617開基)から離れ、村社列格。当社の創建や遷座に関しても別当であった富善寺や創建者の地頭富永氏の影響が考えられる。
明治40年に浜崎の氷川神社に合祀。
しかし当地の人々は合祀に反し、窮余の策として宮戸熊野神社の氏子が遷座させた宗岡袋の天津神社から分霊を勧請し、代わりに鎮守として崇敬したとされるが詳細不明。同時に合祀先の浜崎氷川神社からの返還も熱望し、昭和31年に名実ともに再興。

氏子地域は田島1丁目、2丁目。


田島ノ神明社

田島ノ神明社

「美女神社」(朝霞市田島二丁目鎮座)     
なお、当社北方の飛び地に「美女神社」という小さな神社がある。
美女神社という名前はなかなか珍しい・・・。由来は不明ながら。


美女神社

美女神社



「浜崎ノ氷川神社」     
(浜崎3丁目鎮座)

祭神:須佐之男尊

黒目川を南東に見渡す台地上に鎮座。立地的に創建の古さを感じる。古来、入り江であったとされることから「浜崎」というが、高台であるため水害はすくなかったとされる。
創建年代は不詳。室町中期には存在があきらかにはなっている。少なくとも延徳三年(1491)以前とされる。

明治42年に宮戸の熊野神社(宮戸神社)と田島の神明神社を合祀した際に三柱神社と改称。同時に宮戸中道の高良神社、天神社、宮戸大瀬戸の神明社、宮戸大山の天神社、宮戸大新田の神明社、田島美女の美女神社、笹橋の榛名神社、久保の神明社なども宮戸地区、田島地区の小社も合祀している。
しかし形式的な合祀であり、合祀前の熊野神社や神明神社などは遙拝所としてそのまま残されていた。

大東亜戦争後に旧氏子たちの間から復祀を望む声が高まり、昭和32年に両社の御霊代を旧地に戻し、当社も氷川神社の旧称に復した。昭和36年に護国神社を創建。


浜崎ノ氷川神社

浜崎ノ氷川神社



<参考文献>
『埼玉の神社』北足立・児玉・南埼玉郡編 平成10年3月 埼玉県神社庁
『朝霞市史』



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