「武蔵国埼玉の神社・祭祀圏


武蔵国埼玉の延喜式内社神社について書こうかと思った。書いているうちに「祭祀豪族」に触れすぎた為、別立てとすることにした。つまりこの項は、武蔵国の延喜式内社神社と連動するものである。
神社の話をする前に、「武蔵国」になる前の話から始めようかと思う。

最初に5世紀から6世紀にかけての古墳時代の武蔵国国造勢力圏を考えてみる。
武蔵国となる以前は、「夭邪志(むさし)」「胸刺(む(な)さし)」「知々夫(ちちぶ)」の各々の国造(くにのみやっこ)の支配下にあった。
このうち「夭邪志」「胸刺」国造は出雲臣系氏族で、それぞれ兄多毛比命(エタモヒ命)とその子である伊狭知直(イサチノアタイ)を祖とするため、両氏の縁はかなり深かったと思われる。
一方で、「知々夫」国造は大伴氏の始祖である高御産巣日命(タカミムスヒ命)の子である八意思兼命(ヤツゴコロオモイカネ命)の十世の孫である知知夫彦命(チチブヒコ命)を始祖とするから、前二氏とははっきりと違う系統であることがわかる。
「夭邪志」「胸刺」両国の国造が古墳時代以来の有力豪族であったと考えられるなら、まずは北武蔵領域の埼玉古墳群を中心とした一帯を考えることができる。そして「夭邪志」「胸刺」は始祖が親子関係にあるため「夭邪志」がより有力な豪族であったと考えられる。
そうすると「夭邪志」国造は埼玉古墳群とその周辺の大古墳を築いた豪族と関係すると考えられる。
そして縁戚にある「胸刺」国造の領域は、容易には推測できないが、南武蔵地域(多摩川流域)と考えるのが妥当である。

一方の「知々夫」国造の領域は「秩父」であるのは間違いないようだが、それはあくまで一部である。古墳という観念から考えると、埼玉古墳群に匹敵するような大規模な古墳は見あたらない。
しかし、崇神天皇期に知々夫彦命が知々夫国造になっており、時代が下って成務天皇期に兄多毛比命が夭邪志国造、伊狭知直が胸刺国造に定められたとされていることから秩父郡が埼玉郡よりも先んじて発展していたか、少なくとも同等の勢力を持っていたことが推測できる。
武蔵国内に「高城神社」という延喜式内社がある。この神社の祭神は知知々夫国造の祖神でもある「高御産巣日命」を主祭神としていることから、なんらかの関係があったとも推測できる。このタカギ神=高御産巣日命から大里郡(熊谷・大里地域)の荒川流域は知々夫国造の支配権にあったであろうことも推測できる。そして夭邪志国造との勢力接点は児玉郡にあったであろうとされている。また比企郡も大伴系豪族とされていることから知々夫国造圏と考えることが出来る。
つまり、夭邪志国造勢力圏は足立郡・埼玉郡・入間郡、胸刺国造勢力圏は多摩郡及び多摩川下流域、そして知々夫国造勢力圏は秩父郡・大里郡・比企郡・児玉郡等の荒川上流域地域(この地域は上野国の影響も大きい)であると考えられる。(他にも諸説あるが・・・)


武蔵国埼玉における祭祀の中心は「氷川神社」である。そう考えても良いだろう。ただ、古墳時代から話を始めてしまった為にいささかややこしくなってきた。「氷川神社」社伝には「成務天皇のとき、夭邪志国造である兄多毛比命が出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神とした。」とあり、上記の地方豪族論とはまったく反することをこれから展開しようとしている。「夭邪志国造」は埼玉古墳群の豪族であり、のちの「武蔵国造」である丈部直(はせつかべのあたえ)氏は「武蔵国」を再編成した際の新興勢力(阿倍氏・物部氏系統)であり、新たに「氷川神社」を奉じたと考えられる。
丈部氏は神護景雲元年(767)には一族7名が武蔵宿禰の姓を朝廷から与えられると共に丈部不破麻呂が武蔵国造に任命され、氷川神社の祭祀権を認められている。

とにかく、武蔵国神社祭祀圏を考えてみる。
この「氷川神社」(須佐之男命)分布圏は「元荒川西岸」から「多摩川」にかけて埼玉県南部や東京都を中心にしている。氷川神社は荒川・多摩川流域に多く、埼玉県を中心に東京都・神奈川県の一部にわたり、現在でも200社以上がこの地域に分布している。その中心が大宮(現さいたま市)高鼻に鎮座する、武蔵国一の宮「氷川神社」である。この氷川祭祀圏は比較的古い集落が多く、出雲臣一族による開拓がすすんだことを示している。「氷川」とは、出雲の「簸川」ととく説もあり、おそらくは国造一族は出雲の守護神の霊力を奉じながら開拓事業を遂行したのであろう。
もっとも「氷川神社」が一の宮とされたのは南北朝期以降の事であり、鎌倉期以前の武蔵国一の宮は「小野神社」(東京都多摩市)であった。古代においては一の宮制度は確立しておらず、特別に朝廷や国府が指定したものでもなかった。

また埼玉県東部、東武日光線沿線東側の「古利根川東岸」は、下総国一の宮「香取神宮」(経津主神=本来は物部系氏神。物部衰弱以降に中臣・藤原氏が氏神に取り込んだ)を本源とした「香取神社」が集中している。具体的には埼玉県東部の北葛飾郡、春日部市、越谷市、三郷市や、千葉県野田市、柏市、東葛飾郡などに多く分布している。つまりこの地域は「出雲=氷川」系とは違う部族によって開発された地域であることがわかる。
そして氷川神社祭祀圏と香取神社祭祀圏の中間の「元荒川東岸」から「古利根川西岸」にかけての細長い沖積地帯に分布しているのが「久伊豆神社」である。この久伊豆神社は同名社が100社近く分布しているが、本源神社ははっきりとしていない。
「久伊豆神社」は共通して「大己貴命」(須佐之男神直系)を祭祀していることから、氷川系と関係していると思われる。武蔵国内の延喜式内社44社の多くは関東平野の台地上に散在しており、河川の氾濫した沖積地帯にはほとんど存在していない。「久伊豆」祭祀圏はほとんどが、この沖積地帯に分布していることから比較的新しい開拓村落の氏神として恐らくは10世紀以降と推定されている。ただし騎西・岩槻・越谷の「久伊豆神社」は古い集落に存在し、かつ祭祀圏も広く、なかでも騎西の延喜式内社である「玉敷神社」(古来、久伊豆神社と呼称)は中心的地帯である。

以上は、平野部の話であり「秩父地方」は知々夫彦命以来の知々夫国造が「秩父神社」を中心として祭祀していたと考えられる。また、時代が降ると「入間郡」に「高麗郡」が新設され渡来系氏族が入植し「高麗神社」祭祀圏(大宝3年(716)に高麗神社創建・現在約50社ある)ともいうべきものが出来上がる。


大和王権が東国に進出してきた5世紀−6世紀になると、上記のような地方豪族とは違う勢力も進出してくる。進出してきた近畿豪族は地域住民を部民(べのたみ)として取り込む。
部民には大伴氏につながる大伴部、物部氏につながる物部、阿倍氏が管理したといわれる丈部(はせつかべ)、中臣氏(のちの藤原)につながる中臣部、宍人氏(シシヒト氏)につながる宍人直などが存在した。
そして、これらの部民を現地豪族が管理し、中央の有力豪族下につながっていくことになる。
また豪族の「部民」意外にも皇族所有の部民である「名代・子代」や大王警護の「舎人」などの領地もある。例えば、「名代・子代」には春日部・私部・日下部・刑部・矢田部・藤原部・宇遅部・飛鳥部・壬生部などがあげられる。


上記をふまえて多少煩雑だが列記する。
足立郡―丈部/入間郡―物部・矢田部・大伴部/比企郡―宇遅部・刑部/横見郡―日下部・丈部/埼玉郡―藤原部・物部・矢田部・春日部・私部・壬生部/大里郡―都羅部/男衾郡―飛鳥部・壬生部・服部/那珂郡―宇遅部・当麻部・大伴部・檜前舎人/児玉郡―長幡部/賀美郡―大伴部・檜前舎人/秩父郡―大伴部/多摩郡―大伴部

こうしてあげてみると先ほどの「祭祀圏」や「国造圏」とも重なってくるものがあるだろう。特に祭祀圏はこれらの豪族が奉じていた神社や祭神が、支配地域で祭祀されることになる。

安閑天皇の頃に武蔵国造の地位を巡って笠原直使主(かさはらのあたえのオミ)と同族の小杵(オキ)が争ったという記録がある。このことから笠原直一族が古来の武蔵国造であり、かつ夭邪志国造=埼玉古墳群の主と考えられる。(使主は天皇に助けを求め、小杵は上毛野君に助けを求め、結局は使主が武蔵国造になったが、その際に4カ所が「屯倉」(みやけ=天皇直轄地)となっている。それが横見郡・橘樹郡・多磨郡・久良郡であるとされている。)

天皇家や豪族が武蔵国に進出してきた中でも特に物部氏(入間郡の物部天神社をはじめとす)の活躍が目立つ(秩父地方は大伴氏、埼玉東部は中臣氏か?)。用明天皇2年(587)に大連物部守屋は蘇我馬子らに討たれて物部大連家は衰退してしまう。ところが聖徳太子の舎人として活躍し仏教に理解のあった物部連兄麻呂という人物が633年に武蔵国造に任じられたといわれている。そして、埼玉古墳群をつくった豪族はこの物部連兄麻呂と関係があったとされている。物部氏やその系統にある阿倍氏らと地方豪族である武蔵の物部連氏(物部連兄麻呂)がつながっていたといえる。現に武蔵国造職は丈部直(阿倍氏)や物部連などが務め、8世紀の律令時代の国造は氷川神社を奉斎していた足立郡の丈部直(はせつかべのあたえ)氏(のちの武蔵氏)の手に帰していった。


武蔵国で神名帳に載る神は「44座(大2座・小42座)」を占め、東海道中では遠江国の62座についで多い。さらには氷川神社金佐奈神社の2大社を含んでいる。このことは武蔵国が朝廷の東国開発拠点として重要視された地域であり、さらには勢力のある祭祀集団(=豪族)が数多く存在したことを物語っている。
また埼玉県内でも南東部に式内社がみられないのは、その地域の開発が遅れていたためだろうと思われる。


延喜式内社は、現在も信仰を集めている社もあれば、祭祀集団(=豪族)の衰退や交代により消滅し鎮座地が確定できなくなったりする場合が発生している。この延喜式内社については別項(「武蔵国埼玉の神社・延喜式内社神社について」)によって触れてみたい。



念の為にいっておくと、私は近代史専攻の人間で、古代史の素養はいささか怪しい。いまいち話の視点がずれてしまった気もする。



参考文献
角川日本地名大辞典11埼玉県 昭和55年
神社辞典 白井永二・土岐昌訓編 1997年 東京堂出版
新編埼玉県史 通史編1 原始・古代 昭和62年



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