「武蔵の古社を想う/埼玉南部・前編」
<平成15年2月参拝・記>

前編:目次
調神社」「中山神社」「氷川女体神社

後編:目次
川口神社」「和楽神社

『調神社』      <朱印
(つき神社・調宮神社・延喜式内社・県社・さいたま市岸町鎮座)
こちらも参考><ウサギ好きの人はこちらもどうぞ

御祭神
天照大御神(アマテラス大御神)
豊宇気姫命(トヨウケ姫)
素戔嗚尊(スサノヲ神)

 当社は、延喜式内社足立郡四座のうちの一座とされており、また古くから浦和の総鎮守として栄えていた。
 社伝によると第九代開化天皇の時の創建。第十代崇神天皇の勅命により伊勢神宮の斎主である倭姫命(やまとひめのみこと)が参向し、清らかなる地を選び伊勢の神宮に献じる調物(みつぎもの)を納める倉を当地に建て、武蔵野の初穂米や調収納所として定めたと伝えられている。
 調宮(つきみや)とは調の宮(みつぎのみや)の事であり、諸国に屯倉が置かれた時、その跡に祀った社のことを一般に調宮と呼んだといわれている。
 延元二年広木吉原(現埼玉県児玉郡美里町)城主源範行が社殿を再興し神田(神の田)を寄進。こののち貞和・観応の頃(南北朝期)に兵火で社殿を焼失してしまい、康歴年間頃に佐々木持清が再建。その後、山内上杉・扇谷上杉の戦場となって衰退、小田原北条氏の頃に再興し、のち徳川家康の江戸入府の時に寄進を受けている。

 現在の社殿には「鳥居」や「門」がない。これは倭姫命の頃に御倉から調物を清めるために社に搬入する妨げとなるために鳥居・門を取り払った事が起因となり、現代に至っているといわれている。
 また「狛犬」もない。狛犬のかわりに「ウサギ」が鎮座している。一説に「調(つき)」から「月の宮神社」と呼称され、「月待信仰」によるものから「ウサギ」であるといわれているが、定かではない。
<参考・境内解説看板など>


鳥居のない正面

狛犬かわりにウサギが鎮座

手水舎のウサギ

江戸末期建立という社殿

旧本殿(現稲荷社)
調神社をサイトに掲載するのは二回目だったりする
前回はこちら

旧本殿は享保18年(1733)建築

現在の社殿は安政年間(1854−60)の造営


 浦和駅から南西500メートルの位置。中仙道に面した場所に鎮座している。この神社は二回目の参拝となるが、今回は朱印を頂戴するための参拝。簡単に朱印を頂戴すると明確な用事はなくなってしまったが、せっかくなのでウサギを存分に見学することにする。

 浦和駅から北上して北浦和駅から約10分間隔で運行されているバスに乗車。岩槻方向に向かう。次に目指す神社は「中山神社」という普遍的には有名ではない神社。



『中山神社』     
(氷王子神社・中氷川神社・さいたま市中川鎮座)

祭神:大己貴命

 中山神社は、かつては中氷川神社と呼称され、大宮中川地区の鎮守。創建は崇神天皇2年と伝わる古社。
 明治40年に周辺神社を合祀した際に「中山神社」と正式呼称されたが、現在でも通称は「中氷川神社」とされている。
 「中氷川」とは見沼に面していた高鼻・三室・中川の地にそれぞれ男体社(宮)と女体社(宮)と簸王子社(宮)を祀ったことにはじまるという。すなわち大宮高鼻の氷川神社(素戔嗚尊・男体宮)と浦和三室の氷川神社(氷川女体神社・奇稲田姫命・女体宮)の中間に位置していた当社は簸王子宮として御子神の大己貴命を祀っている。

 境内では古来「鎮火祭」と呼ばれる焚き終わった炭火の上を素足で渡る神事が執り行われていたが、現在は諸事情により中断している。社頭前には「御火塚」と記された石碑がその名残をとどめている。ちなみに鎭火祭の火によって「中氷川」の氷が溶けてしまったために当地を「中川」と呼ぶともされている。

 現在の社殿後方に奧殿として旧本殿(さいたま市指定文化財)が鎮座している。旧本殿は簡素な一間社である「見世棚造り」が二間社となり、階段などが裝飾されていった「流造り」に発展していく過渡期の建築物として、造営期は桃山期と考えられている。
<参考・境内解説看板など>


300メートルほど延びる参道

社頭前

拝殿

本殿

奧殿
奧殿は覆い殿の中。
微妙にわかりにくい写真ですが。

 北浦和駅から10分ほどバスに搖られて「ふじみヶ丘」というバス停で下車して、そこから徒歩5分程度で神社に到着。なぜこの神社に来たのかの理由も明確ではないが、氷川神社・氷川女体神社との三宮関係ということからの訪問。予想していた以上に参道がしっかりとしていた。
 本殿後方に並んでいる奥殿は、建築学的にも貴重なものという。私は神社建築には疎かったりもするが、それでも簡素でありながら歴史観が重厚に漂っている社殿はみていて飽きることはなかった。

 このあとは北浦和駅から南浦和を経由して東浦和に向かう。東浦和からバスにのって「氷川女体神社」という予定。
 ちなみに浦和に馴染みがないと地理関係が分りにくい。今日は武蔵野線で南浦和から京浜東北線に乗り込んで浦和で下車して、調神社。そのあとに浦和から北浦和に向かい、中山神社。北浦和から南浦和を経由して東浦和に向かい、東浦和から再び南浦和を経由して川口、蕨。最後に南浦和から武蔵野線に戻るという経路。浦和がたくさんで、嫌になるほどですが。



「氷川女体神社」      <朱印
(武蔵国一の宮・旧郷社・さいたま市宮本鎮座)
こちらも参考

主祭神
奇稲田姫命(クシイナダ姫命)
配祀神
大己貴命(オオナムチ命)
三穂津姫命(ミホツ姫命・書記のみ記載の神・高御産巣日神の御子、大物主神の妻となる)

 氷川女体神社は県内屈指の古社で大宮氷川神社とともに武蔵国一の宮といわれ江戸期には寺社奉行直轄神社として諸国大社19社の1つに数えられてきた由緒ある神社。社伝では崇神天皇のときに造られたという。大宮の氷川神社(男体社・クシイナダ姫神の夫であるスサノヲ神が主祭神)、大宮中川の中山神社(氷王子社)とともに当「氷川女体神社」(クシイナダ姫命が主祭神だから女体)は「見沼」と深い関係にあり、かつては祭礼の「御船祭」が見沼の船上でとりおこなわれていたという。
 現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿を直結した権現造りの形式。本殿は三間社流造りで、全面に朱色が塗られており、寛文7年(1667)に徳川家綱が再興したものであり、拝殿は本殿と同時か、もしくは元禄の修理の時に建てられたものとされている。

 氷川女体神社は見沼に突き出た台地上に位置しており、社叢は自然林の常緑広葉樹を中心に構成されており、境内は暖地性植物の群生地として、いにしえの姿を良く伝えている。先の調神社も、見事な境内であったが、こちらは市街地のはずれでもあり、雰囲気はひなびており、それでいて良く整備された境内であり、またかつては社領であったと思われる「見沼氷川公園」ともどもに周辺市民の憩いの場となっているようで、私も大いに気に入ってしまった。

 さきほどから「見沼」という地名が良く出てくる。もともとこの地域、つまり大宮氷川神社から氷川女体神社近隣の地域は水郷地帯と呼んでもよいほどの地帯であり、「見沼」はすなわち「御沼」「神沼」と呼称されて、氷川神社・氷川女体神社は武蔵野台地と見沼の境目に鎮座していた。古くから「氷川神社」は農業神として信仰を集めており、荒川・多摩川流域には氷川神社と呼称される神社が220社を数えており、この神社と水・農業との関係が深いということがわかる。
 「御沼」水域を利用して生活していた民(出雲系氏族)は、沼を「神沼」として信仰しており、沼には竜神伝説なども伝わっている。祭礼は「御船祭」として、とりおこなわれ、女体神社から神輿を載せた船が対岸まで南下し、沼の主に御神酒を供えるというものだったが、享保12年(1727)に見沼開拓がおこなわれると(徳川吉宗享保改革の一環。教科書的には良いことでも、日本の伝統にとっては・・・)、かつての祭礼をおこなうことは不可能になり、かわりに社領の見沼内に柄鏡形の土壇上を設け、周囲に池を巡らし、ここに祭祀を移して「磐船祭」として祭礼を行うようになったという。江戸中期頃から行われたこの「磐船祭」は幕末・明治初期までの短い期間で、行われなくなってしまったが、祭祀遺跡は保存状態も良く、現在では「氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡」として復元整備保存がなされている。
<参考・境内解説看板>


社頭

台地上に鎮座

朱塗りの鳥居

社前

本殿
氷川女体神社をサイトに掲載するのも二回目
前回はこちら


本殿は寛文7年(1667)に徳川家綱が再興したもの
武蔵一の宮です。

 以前訪問しているから行き方は心得ている。東浦和駅から10分ほどバスに乗って「芝原小バス停」で下車。さらに10分ほど、見沼用水に沿うように歩いて到着。
 ここにきた理由も朱印を頂戴するため。ただ朱印以外にもこの神社には再訪したい気分もあった。なんとなくこのやさしげな色合いが漂う社殿が好きで、ゆっくりと誰もいない境内で、杜に埋もれる空間を静かに堪能する。
 朱印を貰う。かなり驚きで、バンッババン、といった感じに印を押しまくってくれる。神社名ぐらいは書いてほしかったなあ、というのが本音。神社の雰囲気は好きなんだけどなあ。
 社務所の人が私を珍しがる。朱印を眺めて「調神社に行かれたのですか。それは珍しいですね。」と。どうやら一の宮巡りの人とは違うらしいと気が付いたらしい。この神社の需要が「一の宮参拝」の人びとに支えられていることもわかる。私は「武蔵国の式内社や古社を巡っていますので。」と応対。
 神社の雰囲気は最高に好きなんだけどなあ。

 このあとは川口神社と和楽備神社を散策。それらは後編にて。


後編へ


前に戻る