「武蔵野の古社風景」 〜杉並近隣編〜

<平成16年1月記>

目次・その1
松陰神社」/「豪徳寺」/「世田谷八幡宮
目次・その2
大宮八幡宮」/「武蔵野八幡宮」/「井草八幡宮」/「東伏見稲荷神社


東急世田谷線「宮ノ下」駅から北上する。下高井戸駅で京王線に乗り換えて、さらに明大前で京王井の頭線に乗り換える。西永福駅で下車して、次に大宮八幡宮を目指す。1キロ弱ほどの距離を歩く。


「大宮八幡宮」        <朱印
(府社・東京都杉並区大宮町鎮座)

祭神:
応神天皇
仲哀天皇
神功皇后

由緒
武蔵野台地の東端、古代縄文以来の遺跡である松の木遺跡に隣接し善福寺川に隣接する地に鎮座。
第70代後冷泉天皇の天喜年中(1053−1057)に奥州にて前九年の役が勃発し、勅命により鎮守府将軍源頼義が東征し、この地にさしかかると八条の白雲が棚引き、源氏の白旗が翻ったかのようにみえたという。これを奇瑞とした頼義は乱の平定後の康平6年(1063)に京都石清水から分霊し、勧進したのがはじまりという。

当社は「多摩の大宮」と称され、「秩父大宮(秩父神社)」「足立大宮(大宮氷川神社)」とともに、『武蔵三氷川』と称され、近年は「東京のへそ」とも呼ばれている。
<神社由緒書參考>


南参道入口

東・正面参道入口

大宮八幡神門

拝殿

拝殿正面

境内風景

本殿

多摩清水社と御神水

大宮八幡宮。予想以上に広い神社だった。さすがに「武蔵三大宮」と呼ばれるだけのことはある。明るい境内は近隣の参詣者がときおり足を運んでおり、地域に愛されている神社であることがわかる。
鳩が多いなと感じつつ、しずしずと参拝し、御神水を頂き、正門鳥居まで戻り、南参道から駅まで戻る。

西永福駅から北上して終着の吉祥寺駅に向かう。


「武蔵野八幡宮」     
(東京都武蔵野市吉祥寺東町鎮座)

祭神
誉田別尊(応神天皇)
比賣大神
大帯比賣命 (神功皇后)

由緒
桓武天皇の延暦八年(1167)に、坂上田村麿が宇左八幡の御分霊を祀ったと伝えられる。江戸期の四代将軍徳川家綱の頃、江戸小石川水道橋外吉祥寺火事の後に周辺町民に移住を命じ、寛文初年(1661ごろ)吉祥寺村開村により村民の氏神様として尊崇されてきた。


武蔵野八幡宮

正面
左:境内風景

井の頭線を吉祥寺駅まで乗る。次は井草八幡にいこうと思っていたが、いくべき手段がなかった。とりあえずバスもあるらしいが、なんとなく歩き始める。
駅前からアーケード付きの商店街を北に進み、だいたい500メートルほどのところに「武蔵野八幡」という八幡様が鎮座していた。
この神社に関しては深くを知らない。ただ武蔵野たる堂々とした名前を冠し、そして境内には二組の参詣者が談笑しているのが光景に残る。

武蔵野八幡から歩き始める。2キロ強の距離を北東に30分歩く。途中、善福寺池を通過するとそろそろ「井草八幡宮」が近づいてくる。


「井草八幡宮」         <朱印
(郷社・東京都杉並区善福寺鎮座)

祭神
八幡大神(応神天皇)

由緒
近江街道沿いに鎮座する当社は遅野井村と称する村であり、縄文時代からの遺跡(新町井草八幡遺跡)もあり、当社は遅野井八幡とも呼称された。
創建年月は不詳。
文治五年(1189)に源頼朝が奥州藤原泰衡征討に向かう途中、当社にたちより戦勝祈願をしたという。この年は干天続きで水が枯れており、この地に宿陣した頼朝は自ら弓で地面を穿ち水を求め、7度目にようやく水が湧き出て、水の出があまりにも遅いためにこの地を「遅の井」と名付けたともいう。
応手平定後、建久4年(1193)に頼朝は社頭に雌雄二本の松を奉納し「頼朝公御手植の松」とされていたが、雌松は明治初年に枯れ、雄松は昭和47年の強風で枝を折られ、翌年に枯れてしまった。
江戸期には徳川家光が当社に朱印を給し、正保2年には高家今川氏に当地域が給付され、今川氏の崇敬社となった。寛文4年(1664)に改築された本殿は、現在は覆殿に保護されている。

江戸期までは「遅野井八幡宮」と呼称。明治5年に村社列格し「八幡神社」と改称された。昭和3年に郷社昇格。昭和27年に八幡神社から井草八幡宮に呼称変更。昭和47年には神社本庁別表神社に加列している。


北参道と大燈籠

東参道

楼門

文華殿

社殿

拝殿

井草八幡宮。こちらも予想以上の規模だった。境内規模では都内有数といってもよいほどの広さをもっているだろう。参道をすすみ東側から楼門にはいる。目の前に「松」がある。この松は「二代目」の頼朝公御手植え松という。その松から直角に北側に折れると社殿がある。
参道は重厚で、社殿地は開放的。明暗がはっきりとわかれており、社殿をかこむ青空が奇麗だった。三キロほどを歩いてきた成果をここに見出す。

さてこのあとはどうしよう。家に帰るにしても、付近には駅がない。
バス停にいってみると、バスが青梅街道を練馬区と西東京の境目である「北裏」まで走っている。そこから1キロほど歩くと「東伏見稲荷神社」があるので、そこまでいってから帰ろうかと思う。


「東伏見稲荷神社」         <朱印
(東京都西東京市東伏見鎮座)

祭神
宇迦之御魂神
佐田彦大神
大宮能売大神

由緒
昭和四年に官幣大社伏見稲荷大社の御分霊として奉斎された神社。伏見稲荷大神の御分霊を奉斎した当社は関東方面の稲荷信仰者の熱心な希望によって創建された。


東伏見稲荷神社

神門

拝殿

本殿
左:社殿裏手には多くの小社と稲荷が祀られる神域
「伏見」を模している気配

なんというか稲荷様。夕日に照らされる朱塗りの大鳥居をぬけ、参道階段をのぼり、神門をぬけると社殿がある。見た感じには「稲荷」という強烈な気配は漂っていなかった。社地の裏手に回るとそこは稲荷らしく多くの鳥居が林立し、ここでやっと私も「稲荷様にきたな」という気配にさせられる。

ひととおりの参拝を終え、社頭前の駐車場に戻ってくると自転車にまたがる某氏に出くわす。この近所に住まう某氏にメールを送ったらわざわざおいでなさったようだ。某氏と暫しの談笑をしつつ、今回の神社探訪は終了となる。


<参考文献>
神社由緒書き
案内看板
東京都神社庁サイト<http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/>



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