「武蔵国賀美郡の式内社詣で・1」

<平成16年11月>
その1
熊野神社<神川町八日市>」/「池上神社<神川町関口>」/「阿保神社<神川町元阿保>
皇大神社<上里町長浜>」/「長幡部神社<上里町長浜>

その2
「天神社<上里町五明>」/「熊野神社<上里町堤>」
「七本木神社<上里町七本木>」/「池上神社<上里町忍保>」



式内社に関してはこちら



武蔵国内の式内社を巡り始めて約3年。はじめのころは明確な意識を持っていなかったが、いつしか「全部を巡りたいな」とおもいはじめた。
それでも絶対に巡るのが無理かも、と思っていた場所が二箇所。「椋神社」と「賀美郡」の式内社。
ところが、気が付けば「椋神社」に詣で、気が付けば未踏の地は「賀美郡」だけであった。
式内論社はいくつか残っているが、それでも各所には詣でているので、ここさえ参拝できれば「武蔵国式内社暫定制覇」と名乗っても良いのだろう。


八高線。埼玉県内最北の「丹荘駅」をおりる。9時26分。駅前で軽く地図を確認して「今日はひたすら歩くぞ」「20キロは歩くぞ」と意を決して、歩み始める。


「熊野神社」(村社)     
<今城青八坂稲実神社論社>
<埼玉県児玉郡神川町八日市鎮座>

祭神:家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神のいわゆる熊野三神

鎮座地は鎌倉街道上道付近であり、古来から市(八日市)の開かれる土地。現在は国道254号の脇に鎮座。
当社は村内字今城から今の鎮座地である森下の地に遷座されたと伝えられており、かつては今城青八坂稲実神社を称していたという。
明治五年に村社列格。

熊野神社
正面
熊野神社
拝殿
熊野神社 平成五年、社殿修復工事完了、とある

ガラス張りの覆殿のなかに本殿がおさまっている

9時45分。
八高線の線路に沿って南下。1.2キロほど歩めば「熊野神社」が鎮座している。特に式内社としての自己主張はしていないが地域の鎮守様として、落ち着いた気配を感じる。本殿は覆殿のなかに納まっているが、珍しいことにガラス張りとなっている。この中をみせようという心遣いがうれしい。完全に遮断された覆殿よりも、このほうがより「神威」を感じることが出来る。


今城青坂稲実池上神社(池上神社・村社)      
<今城青坂稲実池上神社論社>
<埼玉県児玉郡神川町関口鎮座>

祭神:淤迦美神(オカミ神)・豊受毘売命・罔像女神(ミズハノメ神)・埴安姫命(ハニヤス姫命)

もとは丹生明神社と呼称。阿保神社の裏に鎮座していたが天正五年(1577)に元阿保村と関口村とに分立(もとは一村)した際に、関口村の鎮守として現在の地に移されたという。
 創立は不明なれども(一説に神亀元年・724)、延喜式内社と伝えられている。当社の社号は元の領主であった安保氏の祖先が大和国丹生川神社を勧進したことに由来するという。

今城青坂稲実池上神社 左:
今城青坂稲実池上神社の社号標と鳥居
今城青坂稲実池上神社
拝殿
今城青坂稲実池上神社
本殿

10時20分。
丹荘駅から北北西に500メートル。さきほどの私のいた熊野社からは1.7キロほどを歩けば、「今城青坂稲実池上神社」が鎮座している。
正面の鳥居からすすんで右手に直角に折れたところに社殿が鎮座。社殿は南面しているが、立地的に参道が窮屈になったのだろう。
境内では、親子がキャッチボールを楽しんでいる。住宅地域のなかに静かに佇むやしろ。社名以外に式内社を感じるものはないが、それでもおもむきを感じる。


阿保神社(村社)      
<今城青八坂稲実神社・今城青坂稲実荒御魂神社の論社>
<埼玉県児玉郡神川町元阿保鎮座>

祭神:大己貴命(オオナムチ命)・素盞嗚尊(スサノオ尊)・伊弉冉尊(イザナミ尊)・瓊瓊杵尊(ニニギ尊)・大宮女大神(オオミヤノメ大神)・布留大神(フル大神)

当地は丹党安保氏の本貫地とされる。鎌倉期から戦国期まで散見される安保氏の館跡のすぐ北西に当社が鎮座。立地条件からは鎌倉期に安保氏が祀ったものと考えることが出来るが、由緒では平安期の創建と伝えられている。一説には延暦三年(784)に当地に来訪した伊賀国の阿保村の阿保朝臣人上(にんじょう)という人物が創立したものであり延喜式内社「今城青八坂稲実神社」であるという。
また上記載の式内社「今城青八坂稲実池上神社」(一名を丹生明神社)が当社の裏に鎮座していたが元阿保村と関口村とに分立(もとは一村)した際に、関口村の鎮守として移されたという。

阿保神社
社叢遠望
阿保神社
参道
阿保神社
拝殿
阿保神社
社殿横姿

さきほどの池上神社から北に500メートルの所に鎮座。10時35分。道をあるけば、らしい森がみえてくる。地図をみなくても、あそこがそうだなと感じられる森に近づけば、そこが間違いなく阿保神社であった。
落ち葉がひろがる境内は、ほほえましいぐらいに秋らしく、そして農村の神社は、そんな姿が似合っている。
阿保氏の崇敬社であり、式内論社。そんな角張った気配よりも、のどかな鎮守様はぼーっと休息するのには最適な境内。そろそろ歩き疲れてきたので休息をする。


皇大神社(村社)      
<今城青八坂稲実神社・今城青坂稲実荒御魂神社・今城青坂稲実池上神社の論社>
<埼玉県児玉郡上里町長浜鎮座>

祭神:オオヒルメムチ命(漢字出ません)

元は神明社と呼称していた。かつては当地に稲荷社(一説にはこの稲荷社こそ式内社とも言う)が祀られていたというが、いつのころか長幡部神社(式内社)に合祀され、その後に神明社が祀られ、明治期に皇大神社となったという。
当社も明治41年に長幡部神社(式内社)に合祀されたが、社殿等はそのまま残され、大東亜戦争後に当地に遷座され皇大神社として復したという。

皇大神社
社地
皇大神社
社殿

完全に迷った私。阿保神社から約1キロ北北東の距離であれど、途中で方向感覚を失い、いつのまにかグルグルと巡ってしまった。
到着は11時30分。なにやら30分も迷って歩いていたようだ。

同じ長浜地区の「長幡部神社」に合祀された、という由来がある神社は、予想よりも小さかった。気になるのはゲートボール場のご老体方の視線ぐらいなもの。


長幡部神社(村社)     
<式内社・長幡部神社>
<今城青八坂稲実神社・今城青坂稲実荒御魂神社・今城青坂稲実池上神社の式内論社>
<埼玉県児玉郡上里町長浜鎮座>

祭神:天羽槌雄命(アメノハヅチオ命)・埴山姫命・他4柱(祭神として大根王という説もある)

賀美郡の4座はいづれも渡来系氏族によって信仰されたものと思われる。この長幡部は紡織集団を示し、3座の「今城」は稲作集団を示していると考えられている。おそらくは美濃国から関東に来住し、機織を職業とした長幡部が氏神を祀った社であろうとされる。
祭神の天羽槌雄命は機織の神である。また主祭神として異説とされる大根王は長幡部連などの祖とされている。
鎮座当初は神流川沿岸の西的場に勧進して建てられたものと伝えられている。その後、平安期の洪水(1110年)で社地が流失したため現在地に遷座。天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失してしまった。その後、いつのころか再建したという。

長幡部神社
社殿正面
長幡部神社
正面
長幡部神社
社殿覆殿
長幡部神社
社殿覆殿

皇大神社から北北東。距離は約1.2キロ。到着時間は11時50分。
完全にシーズンを終えた水田群の向こうに広がる社地。神社の回りには住宅がまとまっており典型的な鎮守様相をあらわす。
神社は本殿を覆う形式。空間は開放的で回りの農地の開放感もあわせて吹きさらされている感じがする。

次いでは、天神社に向かうことになるが次ページへ。




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