「神のやしろを想う/花園・神田編 その2」
花園神社 神田神社
平成14年7月参拝
「花園神社」
(郷社・新宿総鎮守)(その1はこちら)
祭神
倉稲魂神・日本武尊・受持神
花園神社は、新宿の総鎮守として内藤新宿内に於ける最も重要な位置を占める神社であった。徳川氏が関東に入封する以前から鎮座しており大和吉野山から勧請したという。寛永以前の社地は現在の伊勢丹の地にあり、朝倉筑後守がその地を拝領することになり、台地として現在の地を拝領したと伝えられている。
明治維新以前から新義真言宗愛染院の末寺である別当三光院が奉仕していた。しかし明治維新による神仏習合廃止の際にそれまであった本尊十一面観世音菩薩を愛染院に納めて三光院は廃絶となった。
花園神社は当初「四ッ谷稲荷」と称し、のちに「花園稲荷神社」と称していた。昭和四十年に社殿を新築し、本殿に大鳥神社を合祀し花園神社と改名したという。
花園神社 |
社号碑(加藤寛治海軍大将謹書) |
拝殿 |
本殿 |
べつにとりたてて新しいことがあるわけではない。ただ、まぶしいばかりの青空の下で、ふと写真が撮りたくなっただけ。なぜなら「花園神社 その1」の写真が気に入らなかったから。
平成15年1月参拝
「神田神社」 <朱印>
(神田明神・江戸総鎮守・その一はこちら)
祭神:
大己貴命(大国主命)・少彦名命・平将門命
この神田神社では「大己貴命」を大黒さまとし、「少彦名命」を恵比寿さまとしている。
社伝として徳川家康公が関ヶ原の合戦に挑む際に神田神社のお守りを授かり勝利を得たことから、縁起の良い御守り、心願成就の御守りとして「勝守」が知られている。
神田神社は聖武天皇の天平2年(730年)の創建といわれている。
約200年後、桓武天皇6代の後胤とされる平将門が俵藤太に討たれ、その首が京都にさらされた。やがてその首を残党が奪い返し塚を築いて葬った場所が、神田神社の近くであったという。
延慶2年(1309年)には将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付けこの地の守護神となった。
天正18年(1590年)に徳川家康公が江戸に転封され大規模な城下町の造成工事が始まる。そして元和2年(1616年)に神田神社は現在地に遷座し江戸城艮鬼門(うしとらのきもん)の守護神となり、二代将軍秀忠の代には桃山風の豪壮な社殿が造られた。
寛永3年(1626年)烏丸大納言光広卿が神田神社に参拝し、将門公が朝敵とされていたのを赦免し、神田大明神の勅額を賜った。その後明治元年には勅祭社に列せられ、同7年には明治天皇が御親拝された。
現在の社殿は昭和9年に神社建築としては当時として画期的な鉄骨鉄筋コンクリート造総漆朱塗の社殿として、社寺建築の近代化に先鞭をつけた建物として貴重なものとなっている。また随神門は木造入母屋造り重層建で昭和51年に完成したものである。
左上:楼門 上:拝殿 左:獅子山 |
べつにとりたてて新しいことがあるわけではない。ただ、まぶしいばかりの青空の下で、ふと写真が撮りたくなっただけ。なぜなら「神田神社 その1」の写真が気に入らなかったから。 ・・・理由は花園神社と同じ。
前に戻る