「武蔵の古社を想う/花園神田湯島編」
<平成13年10月参拝・12月記>


 花園神社 / 神田神社 / 湯島天満宮
 
 附記:東京大神宮(平成13年7月参拝)



「花園神社」     
(新宿総鎮守・その2写真編はこちら

祭神
倉稲魂神・日本武尊・受持神

 花園神社は、新宿の総鎮守として内藤新宿内に於ける最も重要な位置を占める神社であった。徳川氏が関東に入封する以前から鎮座しており大和吉野山から勧請したという。寛永以前の社地は現在の伊勢丹の地にあり、朝倉筑後守がその地を拝領することになり、台地として現在の地を拝領したと伝えられている。
 明治維新以前から新義真言宗愛染院の末寺である別当三光院が奉仕していた。しかし明治維新による神仏習合廃止の際にそれまであった本尊十一面観世音菩薩を愛染院に納めて三光院は廃絶となった。
 花園神社は当初「四ッ谷稲荷」と称し、のちに「花園稲荷神社」と称していた。昭和四十年に社殿を新築し、本殿に大鳥神社を合祀し花園神社と改名したという。

花園
西鳥居と狛犬
花園
花園神社拝殿


 新宿駅から雑踏を抜け、「花園神社」に向かう。向かって早々に「失敗したな」と思ってしまう。この日は10月も月末に迫ったある日。どうにも「花園神社大酉祭」が近いらしくて準備の真っ最中。ゆえに「うるさい」。写真も撮りにくい。鳥居を抜け、境内を見渡すが、どうにも私が場違いのような気がする。

コンクリの石段があり、その上に拝殿が鎮座している。ところが、工事現場のように足場が組まれている。これが「まつり」当日になると「提灯」が取り付けられるとのことだが、そんなことは、今は関係ない。今はただ、この「足場」が邪魔だなと思うだけである。

「花園神社」に来たのは初めてであった。そんな有名な神社でもないと思うが、個人的に新宿にあるということは知っていた。もう何年も前になることだが、あるラジオ(某文化放送)のイベントで某コーダ嬢の「初詣先」を当ててみよう、とのことで、某コーダ嬢は花園神社に訪れ見事に当てることができたリスナーの人と初詣を行った、という様なイベントであったと思うが、もう何年も前のことなのでこの覚えは怪しい。

石段は椅子と化しており、神を神とも思っていない不届き者が何人も座っている。場違いな私はそこを抜け、拝殿にて参拝する。いつもの通り、参拝を終えると私も用事がなくなる。社務所に行くと、ちゃんと営業していたので(この手の神社は社務所が祭と正月以外は営業しないところも多い/苦笑)簡単な御由緒が書かれた縁起書をいただき、境内の碑を見て歩き工事(祭の準備)の邪魔にならぬよう退散することにする。



「神田神社」      <朱印
(神田明神・江戸総鎮守・その2写真編はこちら

祭神:
大己貴命(大国主命)・少彦名命・平将門命
この神田神社では「大己貴命」を大黒さまとし、「少彦名命」を恵比寿さまとしている。

 社伝として徳川家康公が関ヶ原の合戦に挑む際に神田神社のお守りを授かり勝利を得たことから、縁起の良い御守り、心願成就の御守りとして「勝守」が知られている。
 神田神社は聖武天皇の天平2年(730年)の創建といわれている。
 約200年後、桓武天皇6代の後胤とされる平将門が俵藤太に討たれ、その首が京都にさらされた。やがてその首を残党が奪い返し塚を築いて葬った場所が、神田神社の近くであったという。
 延慶2年(1309年)には将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付けこの地の守護神となった。
 天正18年(1590年)に徳川家康公が江戸に転封され大規模な城下町の造成工事が始まる。そして元和2年(1616年)に神田神社は現在地に遷座し江戸城艮鬼門(うしとらのきもん)の守護神となり、二代将軍秀忠の代には桃山風の豪壮な社殿が造られた。
 寛永3年(1626年)烏丸大納言光広卿が神田神社に参拝し、将門公が朝敵とされていたのを赦免し、神田大明神の勅額を賜った。その後明治元年には勅祭社に列せられ、同7年には明治天皇が御親拝された。
 現在の社殿は昭和9年に神社建築としては当時として画期的な鉄骨鉄筋コンクリート造総漆朱塗の社殿として、社寺建築の近代化に先鞭をつけた建物として貴重なものとなっている。また随神門は木造入母屋造り重層建で昭和51年に完成したものである。

神田神社 神田神社
神田神社 左上:神田神社鳥居
上:神田神社楼門
左:神田神社拝殿


 秋葉原駅に向かう。本当はお茶の水駅の方が近いのかも知れない。でもやはり、馴染みの駅から馴染みのないところに行くことにする。
 秋葉原の電気街で買い物をしていると、御輿に出逢ったことがあった。最初は、何事かと疑問のかたまりでいたが、どうやら神田神社らしいとわかった。その時から、気になり始めたのが神田神社であった。

 今度は立派な神社であった。まさしく正しく「神社」であった。あまりにも神社らしく「格好」良かった。こちらも気にはなっていたが、参拝したのは初めてであった。
 輝かしすぎる楼門をぬけ、ほどよく人々が散策している境内から拝殿を望む。予想以上に立派な拝殿であった。とりあえず、参拝する。参拝してしまえば、やはり用事はなくなる。

 境内には摂社・末社の数が以外と多かった。左手から順に巡って、一社一社頭を下げながら歩く。正確には覚えていないが10社以上はあった気がする。ぐるりと回ると、変なのがある。まずは「銭形平次の碑」、平次親分は明神下にいたという由来からだが、おもわず「銭形平次」が実在かと思ってしまった。他には「国学発祥之碑」などもあるが、えてして特に意味のない碑が多かった。



「湯島神社」     
(湯島天満宮・旧府社)

祭神:
天之手力雄命・菅原道真公

 湯島天神は雄略天皇の勅命により御宇2年(458)1月創建と伝えられ、アメノタヂカラヲ命を奉祭したのが始まりとされている。
 時代は降って正平10年(1355)2月に郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の太祖と崇め本社に奉祀し、文明10年(1478)10月に太田道灌が、これを再建したという。
 天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入城され、天正19年11月に寄進し菅公の遺風を仰ぎ奉ったとされる。以後、学者・文人の参拝がたえることなく続き、五代将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すに及び、この地を文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬することとなった。
 明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当たった。明治五年には郷社に列せられ、ついで明治18年に府社に昇格している。
 明治18年に改築された社殿も老築化し、平成7年12月に現在の社殿が再建された。
 社殿は、本殿と拝殿が弊殿で結ばれている「権現造り」の建築様式で、日本古来の「木の文化」を象徴する純木造である。現在ではたとえ寺社建築であろうとも防火地域では新たな木造建築は認められていないが、万全の防火設備を整え、一年近い審議を経て、建築大臣認定第一号として特別に木造建築が許可されたという。

湯島神社 湯島神社
湯島神社 左上:湯島神社大鳥居
上:湯島神社鳥居と参道
左:湯島神社拝殿


 「神田神社」を後にしたら、次に「湯島神社」に行こうかと思う。
 「湯島神社」には、まったくえんもゆかりもない。第一、この手の「天神様」には興味もなく、お世話になりたいとも思ったことはない。けれどもなぜだか向かおうとしている。理由は簡単。ただ地図上で近くにあるからであった。

 地図では、距離しかわからない。いざ行こうとしたらひどい高低差が私を出迎えてくれた。神田神社という高台から湯島神社という高台に向かってへこみがあり、降って登ってを行わざるを得ない。だいたい神社というのは高台にあるものだからいたしかたがない。
 「湯島神社」に到達する。意外と小さく狭い境内。参道に出店があり、ますます狭さを感じさせる。ところが人が多い。人の多さは神田神社以上のものがあった。ただ神社拝殿から右手に回廊が延び、回廊をくぐるように本殿を一周でき、中にはいると空間の広がりを実感できた。

 参拝を済ませると、いつもの通り用事はなくなる。と思ったら、なにやら騒がしくなった。今は平日の3時過ぎ。どうもこれから神前結婚式が執り行われるらしい。神社には何度も参拝しているが、結婚式のような儀式に遭遇したのは初めてであった。おもわず、全く関係ないけれども、もっとも神社が小さめということもあり、存分に見物できた。


あとがき。

今回は、意外と手間がかかった。忙しくて執筆の時間がなかなかとれず、中身は大したことないのに、3週間ぐらい滞っていた気がする。執筆の後先もめちゃくちゃになったというのも一因だが、手間がかかりすぎた。あまり間をおくと、ほとんど忘れてしまう。
今回は、パンフレットの丸写しで、それ以外の参考文献は一切なし。
次の埼玉県内神社編も、手間がかかりそうです。写真の準備は出来ているが、やっぱり執筆時間がないので・・・。


附記:平成13年7月参拝。
ページ構成上、ここに搬入させました(笑)

「東京大神宮」     
(府社・伊勢神宮東京遙拜所)
再掲載ページあり

御祭神:
 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ・伊勢神宮内宮の祭神)
 豊受大神(とようけのおおかみ・伊勢神宮外宮の祭神)
 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
 神産巣日神(かみむすびのかみ・以上三神が造化の三神)
 倭比賣命(やまとひめのみこと・天照皇大神の御杖代・第11代垂仁天皇皇女)


 江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いだった。(私としても、伊勢神宮参拝をしたことがない。)明治の新政府が誕生すると、明治天皇の御裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遙拝殿として明治13年4月17日に創建された。
 最初は日比谷の地に鎮座していたことから「日比谷大神宮」と称されていた。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っている。
 「東京のお伊勢さま」と称され親しまれているが、伊勢両宮(内宮・外宮)の御祭神である天照皇大神(日本国民すべての祖神)と豊受大神(農業・諸産業・衣食住の守護神)、さらには倭比賣命を奉斎していることによる。
 また、天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る造化の三神が、併せ祀られていることから縁結びに御利益のある神社としても知られている。

東京大神宮
東京大神宮
東京大神宮
東京大神宮

 
 有楽町線飯田橋駅。私はいつもは市ヶ谷駅で降りる。靖國神社の最寄り駅であり、今日もそのつもりで有楽町線に乗った。だが、心の片隅に引っかかっていたものが表面に表れてしまった。だから、私は飯田橋駅で降りる。
 駅構内地図を見ながら悩む。私の行きたい場所が書いていない。手持ちの地図と照らし合わせ、出口を探す。詳しくは書いていないが、構内地図上に緑の一角を見つける。私の手持ちの地図とも区画は一致し、目指す神社はそこにありということをやっと確信する。

 地下からはい上がる。むっとする空気。ギラギラと照りつける日差し。毎日の事とはいえ、どうにも暑いのは困る。東北の血が混じる人間としては体質上どうにも夏は苦手であった。
 早速、迷う。いつもの事ではあるが、相変わらず迷う。地図とにらめっこし、日陰日陰で歩を進める。まっすぐ歩いて、右に折れて、まっすぐ歩いて、また右に折れる。つまり、大回りをしたようではあったが、ようやく目指す場所にたどり着く。

 寂しい、そして狭い。当然そんなところには誰もいない。「東京大神宮」はそんなところであった。「東京大神宮」などといっても、多くの人にとってはなじみのない神社であろう。私にとってもなじみがない。ゆえに今日訪れてみたわけである。
 まずは、鳥居に敬礼し、手水舎で身を清める。そして拝殿に向かい、いつものとおりに二拝二拍手一拝の参拝する。参拝をしてしまうと、もう用事がなかったりもするのだが…。

 あいにく私は伊勢神宮の東京遙拝殿として、日本人の神・祖国の神・祖神としての面から参拝した。縁結びがどうこうという話や、神前結婚式の元祖という話は知らなかった。とにかく、伊勢の神と接したという満足感しか持ち合わせていなかった。





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