「武蔵の古社を想う・江東台東編」
<平成15年2月参拝・記>

目次
富岡八幡宮」/「亀戸天神社」/「浅草神社」/「浅草寺


『富岡八幡宮』      <朱印
(准勅祭社・東京十社・府社・江東区富岡鎮座・深川八幡)

祭神:応神天皇他八柱

 富岡八幡宮は寛永四年(1627)に、菅原道真公の末裔とされる長盛法印が霊夢を感じ、当時永代島と呼ばれていた小島に創祀したものとされている。そしてのちにこれらの地域が「深川」として発展した。
 徳川将軍家は源氏の氏神である八幡宮を崇敬しており、将軍家はしばしば参拝。社殿修理を行うなどして保護をしてきた。
 明治の世には准勅祭社に列格し東京十社に数えられている。
 富岡八幡宮では貞享元年(1684)に初めて寺社奉行の許しを得て勧進奉行が行われた。これが江戸勧進相撲であり、現在の大相撲前身とされている。境内には「横綱力士碑」や「大関力士碑」など、相撲ファン必見の碑が多数ある。(参考:御由緒)

富岡八幡宮 富岡八幡宮
富岡八幡宮 富岡八幡宮

左上:正面
上:社殿正面
左:社殿

 地下鉄東西線「門前仲町」からすぐの所に鎮座。深川不動と並んでいるが、深川不動は明治十一年(1878)に成田山不動堂から遷座したもの。どこでもそうだが、この深川の地も寺院の方が人びとに溢れている。私はそんな人流を無視して神社に向かうだけ。
 映像ではよく見かける独特の社殿が参道奧にどっしりとした光景として目に入る。こういう造りを何造りというのかは知らないが、普通の社殿に楼閣が取り付けられた雰囲気。見ていてなかなか飽きない建造物。たまには八幡宮もいい感じ。

 東京十社なので、参拝祈念に御朱印を頂戴したら、かるく深川不動を一瞥して地下鉄大江戸線「門前仲町」から「両国」に向かう。江戸博の脇をすり抜けるようにしてJR両国駅に到着し、今度はJR「亀戸」駅へ。次は「亀戸天神社」の予定。



『亀戸天神社』      <朱印
(亀戸天満宮・府社・准勅祭社・東京十社・江東区亀戸鎮座・亀戸天満宮)

祭神:天満大神(菅原道真公)・天菩日命(菅家の祖神)

 正保年間(1644−48)に九州太宰府天満宮の神人であった菅原信祐(道真の末裔)は霊夢に感じ、菅公ゆかりの飛梅で神像を刻み、社殿建立の志願をもって諸国を巡り、寛文元年(1661)に江戸に到達。江戸本所の亀戸にあった天神の小祠に奉祀をした。この頃、徳川幕府は本所開発に精力をそそいでおり、天神様を崇敬していた徳川家綱は亀戸の現在地に社地を寄進し、寛文2年(1662)に菅原信祐が太宰府を勧進。太宰府にならい、社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋等を営み、この年に創祀御鎮座となる。以来、東国天満宮の宗社として崇敬されてきている。

 古くは東宰府天満宮・本所宰府天満宮・亀戸天満宮と称していた。明治期に准勅祭社、明治6年に東京府社に列格。昭和11年に亀戸天神社と社号を改めた。(参考:御由緒)

 また昭和七年に東京市の合併を記念して選定された「新東京八名勝」では第八位に名を連ねている。(第一位は池上本門寺、二位は西新井大師、第三位は品川神社、四位は日暮里諏訪神社、五位は赤塚松月院、六位は目黒祐天寺、七位は足洗池)

亀戸天神社 亀戸天神社
亀戸天神社 左上:亀戸天神社正面

上:太鼓橋から社殿を臨む
両脇は藤棚と心字池

左:社殿

境内は菅公1100年を期して整備されたという

 亀戸駅から歩くこと10分ほどで正面に到着。天満らしい梅が咲きはじめている正面鳥居からは丸丸とした太鼓橋がみえ、社殿の屋根のみがみえる。太鼓橋の上に立つと、社地が一望でき、藤棚や心字池、そして正面の社殿を望める。どうやら、藤の季節には豊かな雰囲気を感じさせてくれる気配。花に彩られる神社、というのは私程度でもかなり魅力的。
 神社は普通に天満宮。なにやら私も「学業成就」を祈願しに来たようでちょっとだけ悲しくなってくる。基本的に私は「神頼み」はしないので。

 亀戸からは東武亀戸線から東武線を経由して浅草に向かう。本当は行きたくもないのだが、時間もあるし神社があるので行かねばなるまいだろう。よくわからない理屈で、嫌々ながらに浅草に向かう。



『浅草神社』       <朱印
(郷社・台東区浅草鎮座)

祭神:
土師真中知命(ハジノマツチノミコト)
桧前浜成命(ヒノクマハマナリノミコト)
桧前竹成命(ヒノクマタケナリノミコト)

合祀:徳川家康公・大国主命

 浅草神社の創建起源は不詳。権現思想・本地垂迹説の流布に関係して平安から鎌倉以降と推定。
 
 浅草神社や浅草寺に伝わる伝承を以下に記す。
 推古天皇36年3月18日(626・陽暦4月30日)、漁師の桧前浜成・竹成の兄弟が浅草浦(隅田川)で漁労をしていたが、この日は一匹も魚が捕れず、投網には人型の像がかかるのみであった。兄弟はただの人形と思い、何度も海に投げ捨て場所を変えて網を打っても、不思議と魚ではなく人形のみがかかった。最後には兄弟も不思議に思い、その像を奉持して、郷土の文化人であった土師真中知にこの事を伝えると、これこそ聖観世音菩薩の尊像であると説明された。
 兄弟は観音の現世利益仏であることを知り、何となく明日の大漁を祈願してみると、翌日は願いの如くの大漁となった。
 土師真中知は間もなく剃髮して沙門となり自宅を寺となして、この観音像を奉じ、郷民の教化に務めたという(これが浅草寺の創祀)。
 土師真中知没(舒明天皇11年・651年)後に、その嫡子が観世音の夢告をうけ、すなわち「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、その感得供養の力は賞すべきなり。観音堂のかたわらに神として鎮主すべし。名付けて三社権現と称し、いつき祀らば、その子孫は土地と共に繁栄せしむべし」と告示され、この時に三社権現(浅草神社)が創建されたという。
 ただ、この伝承はかなりの無理があり、平安末期から鎌倉時代にかけての仏教普及の方便として流布した本地垂迹、権現思想の影響によって、土師氏や桧前氏の子孫が、祖神崇敬の郷土神として祀ったものであろうと推測。なお当社の宮司である矢野氏はは土師氏の末裔でという。(参考:浅草神社と三社祭・浅草神社発行)

 今の社殿は徳川家光が慶安2年(1649)に建立寄進したもので、徳川時代初期の代表的な権現造り建築物。昭和26年に国指定重要文化財となる。
 当社は古来以来「三社権現」と称していたが、明治元年に「三社明神社」と社名変更。明治5年に郷社に列格し、翌6年に「浅草神社」と社名を改め現在に至る。
 当社の祭礼である三社祭は江戸の三大祭(日枝・神田)として著名。
 拝殿正面には越前の松平春嶽による「浅草神社」の扁額が掲げられている。
(参考:浅草神社と三社祭・浅草神社発行)

浅草神社 浅草神社正面
社殿は国指定重要文化財

となりの浅草寺と比べて嘘のように人影がまばら。
ちょっとさびしい・・・です。
浅草神社
拝殿正面
浅草神社
拝殿正面
浅草神社
拝殿一部
浅草神社
本殿横影

 なにが悲しくて浅草、なのだろう。なんかお上りさんみたいでバカバカしい。確か、少年の頃は親に連れられて来た記憶も若干は残っているが、そんなのは無きにひとしい。とにかく人ゴミも寺院も仲見世も嫌い(笑)なので脇を歩いて浅草寺二天門(東側にある国重文。実は浅草東照宮の名残)から境内に立ち入る。二天門を抜けると、あわわっ、な感じ。なんか憧れの古都みたいな風景がひろがる。正面に呆れるほどに大きな浅草寺本堂が腰を落ち着けており、奧に五重塔。そして左側に宝蔵門。右側に浅草神社、があった。

 あきれるばかりの繁栄ぶりを浅草寺にみる。信仰心の欠片もない大衆が大挙として押し寄せている姿。私の嫌いな典型的俗臭を放つ寺院がそこにあった。もうどうしようもないぐらいに呆然としてしまう。逆にいうと、そんな風に愛されている寺院に嫉妬している、ともいうのだが。
 さすがに「脇目もふらず」とは言い難い状況で浅草神社に参拝する。なんとなく不憫なのでことさらに丁寧に参拝をしてみる。ついでに朱印を頂戴する。浅草神社の環境になんとなく敬意を表してしまう。しかし御由緒を頂戴して祭神を確認すると首を傾げたくなる。なんとなく頭を下げる意味合いが怪しいので。まあそこはいにしえの偉人を偲ぶという事にはしておく。

 社殿は国重文。しかし神社の文化財が霞んでしまうが、こぢんまりと纏まった権現造りは、それほど華美でなく、それでいて魅せてくれる風格を感じさせる。社殿内部も覗き込む価値があるぐらいに豪壮。これはなかなか邪険には出来ません。浅草寺なんかよりもよっぽど見応えがある、といってみる。浅草にも良いところをみつけました(笑)。
 なぜか境内には猫が多く何匹も拝殿脇で昼寝をしているのも、なんとなく浅草らしくて、のどかだった。



『浅草寺』

 もともとは天台宗であったが、戦後に聖観音宗を創立し総本山となる。山号は金龍山、院号は伝法院。江戸期には幕府祈願所となる。都内最古の寺院。本堂は昭和33年再建。宝蔵門は昭和39年再建。五重塔は昭和48年再建。

 寺院のことは知りません(笑)。解説できるほどの情報も保持していないので由緒は「浅草神社」で記した以上のことはかけません。浅草寺の守護神が浅草神社であり、由緒の通りに一心同体なんですけど。

浅草寺
雷門は人だらけ
浅草寺
宝蔵門も人だらけ
浅草寺
二天門は地味ながらも国重文
浅草寺
いわずとしれた五重塔
浅草寺 浅草寺本堂横姿
あきれるばかりの巨大建築は、威圧感を伴う

 広い敷地に本堂と五重塔と宝蔵門の巨体が鎮座している。そのなかを人びとが思い思いの意志で歩いたり、駆け抜け(自転車・・・)たり、立ち止まったり、休んだりしている。
 修学旅行系の学生もちらほら。仲見世では威勢のよい声が飛び交う。深々とした静寂につつまれる神社とはまるで正反対の姿を見出す。私が寺院を苦手とする原因はこういう雰囲気にあるのだろう。とにかくこんな環境では心も落ち着かず、ゆっくりと散策する気も起きない。なによりも鼻をつく線香の匂いがたまらなかった。

 なんとなく後味が悪いが、このあとは秋葉原に行くという用事(これも気配は最悪だが)があるので、地下鉄銀座線で末広町に向かうことにする。



<参考文献>
「富岡八幡宮御由緒」 社務所発行
「亀戸天満宮御由緒」 社務所発行
「浅草神社と三社祭」 昭和38年初版・平成8年三訂版・森田新太郎編・浅草神社発行



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