「郷土の鎮守様・田中神社編」

<平成16年6月>

知形神社」/「大栄神社」/「田中神社」/「三ヶ尻ノ八幡神社


武蔵国の式内社に田中神社という小社がある。おそらくは、武蔵国内式内社の中でも規模の小さな社。

地元駅が東武東上線沿線。そのまま東武東上線を北上すると寄居に到着する。寄居はJR八高線と秩父鉄道と東武線のターミナル駅。極めてローカルなターミナル駅から秩父鉄道に乗りかえようかと思っていた。
みなれた近郊住宅地を東上線は北上し、極めて武蔵野的な沿線光景を広げながら、電車の中にまどろむ。本当ならこの時間で愛機「LibrettoL5」を取り出したいところなのだが、ちょうど向かい席に「ビクター・インターリンク」を取り出しているサラリーマンがいる。さすがの私もこの状態で「LibL5」を取り出す勇気はない。あきらかに格下のマシンであるから。そんな敗北感にひたりたくないし、インターリンク野郎に優越感を持たせるのも面白くないので、さしあたり奴が下車するまでは我慢する。道のりは長いのだから。
もっとも、こんな敵愾心を持たねばいけないのも、旧世代マシンと化した「Lib」の後継がでないのがいけないのだ。
東武東上線は長閑すぎるダラダラ運転で北上する。川越以北まったりもっさりすぎる速度は、それこそLibrettoに匹敵するな、と思いつつ。
寄居駅での乗りかえ。わずかに期待するも八高線の姿はみえず。頻繁に行き来する秩父鉄道の貨物輸送に感心しなが交換可能駅での貨物車両との連携に感心しつつ、全く馴染みのない駅で下車する。

今日、最初の目的駅は「武川駅」。南西に500メートルほど歩いたところに鎮座している「知形神社」に赴く。知形神社は応正寺と保育園と同居するかのような環境だった。


「知形神社」     
(埼玉県大里郡川本町田中鎮座・村社)

祭神:瓊瓊杵命(一説に思金命)

川本町田中の地は、東西に熊谷と秩父、南北に深谷と嵐山を結び、さらに荒川水流を臨む交通の要所。吉田東吾『大日本地名辞書』では式内社論社とされるが地名の田中が根拠となる以外の確証なし。
埼玉県神社庁「埼玉の神社」に記載される「藤原秀郷伝説」は地元では伝承されておらず、千方修理太夫云々を祭神とするのはあやまりとされる。
その他の詳細は不詳。

知形神社 知形神社
知形神社 知形神社

駅から10分ほど歩いて到着。当社を式内論社というのも、田中という地名に鎮座しているから。境内はきわめてのどかであり、木陰のベンチで読書をしている女性と、プールにはしゃぐ保育園児たちの姿以外には、なんら気になる気配がなかった。
案内板もなく由緒も不明。

秩父鉄道武川駅から再び乗車して大麻生駅で下車。これまたひどくローカルな駅。駅から「田中神社」を目指して歩く。距離にして北西1.5キロ、25分の道のり。歩むペースが遅いのも日差しが強すぎるため。

途中、大栄神社という神社がみちすがらに鎮座していたので足を運ぶ。


「大栄神社」     
(埼玉県熊谷市大麻生鎮座・村社)

詳細不明

大栄神社
大栄神社
大栄神社
拝殿

だいぶ新しい気配を漂わせる社殿だった。ちなみに鎮座地は大麻生駅の北北西250メートル。大麻生地区の総鎮であることはなんとなくわかるが、参拝時には、それ以上はなんらわからなかった。


「田中神社」     
(埼玉県熊谷市三ヶ尻鎮座・村社)

祭神:武甕槌命・少彦名命・天穗日命

荒川の扇状地内。四方を水田に囲まれている。もとは天神社。また水田の中間にあるので田中天神といわれるようになったという。付近には古墳群もあり、有力豪族の存在をうかがうことができる。
境内には要石があり磐倉、そして境界石とされている。
天神とよばれるが菅公(菅原道真)の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰。ただ、のちに菅原道真公を配祀している。
明治末期に新堀新田の八幡社に一時合祀されたが、その後まもなく氏子の申し立てによって現地に復興。式内社としての格式が尊重されたからという。

田中神社
田中神社の杜
田中神社
田中神社
田中神社
正面
田中神社
正面
田中神社
社殿
田中神社
社殿

日差しに照らされながら、交通量の激しすぎる県道を歩いていると、いかにもというようなこんもりとした木々が目につく。田圃の中に浮かんでいるような光景に、私はおもわず嬉しくなってしまう。
この気配がほほえましく、まさに「田の中」の神社であった。

この先はどうしよう。三ヶ尻に鎮座している八幡社に足を運ぼうと思った。もうこうなれば歩くだけだ、という氣概に溢れつつ。
手元の地図をながめると、「田中神社」から1.5キロ北に「八幡神社」があった。そこに赴こうかと思う。


「三ヶ尻八幡神社」    
(埼玉県熊谷市三ヶ尻鎮座・村社)

祭神:応神天皇

由緒
詳細不明。天喜4年(1056)に源頼義と八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされる。
境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこる。
平成12年に社殿を新装。

三ヶ尻ノ八幡社
正面
三ヶ尻ノ八幡社
寛永6年(1629)の鳥居
三ヶ尻ノ八幡社 三ヶ尻ノ八幡社
三ヶ尻ノ八幡社 三ヶ尻ノ八幡社

三尻小学校と三尻中学校の間に鎮座。この神社も由緒解説をしてくれる看板は特になく、神社の気配を身体で感じるに留まる。それでも新しめの社殿と、鬱蒼たる杉古木にかこまれる社地は、神威に満ちており、疲れた身体をいやしてくれた。

ただ、実は暑さで思考回路はあやふやだったらしい。私の早とちりの頭では田中神社の式内論社は「三ヶ尻ノ八幡社」である、という知識があった。しかし確認してみると(式内社調査報告<式内社研究会編纂>・武蔵の古社<菱沼勇著>)、現在の三ヶ尻という行政範囲ではなく、もっと広い範囲での「三ヶ尻」らしく、この神社は論社とは関係ないかもしれない。今の執筆時点では、三ヶ尻の北東に「新堀新田」という字がありそこに八幡社が鎮座しているのを地図で確認している。そこが式内論社の「八幡社」だろう。もっとも参拝していないのでわからないが。

式内論社であるのかどうかは不明ながらに当社も古社であることは間違いなさそうだ。八幡社勧進以前になんらかの祭祀があったかどうか、それもわからない。

しかし、歩き疲れて暑さにやられた私は、「三ヶ尻ノ八幡社」から一直線にのびる区画整備化された道路を2キロ歩んでJR籠原駅に到着。途中で、すこしでもそのことに気が付けば右に500メートル折れただけで「新堀新田」の八幡社に足を運べたはずなのが今の執筆時にわかり、なんとなく面白くない。もともと朝目覚めて、唐突に「田中神社」に行こうと思い立ちなにも考えてなかったのがいけないのかもしれないが。幸いにして駅から近いので「新堀新田の八幡社」は、またの機会でも良いだろう。もっとも論社としての根拠は明確ではなく、一時「田中神社」が合祀されていたという記録があるぐらいだが。

いずれにせよ、秩父鉄道大麻生駅から、田中神社を経由してJR籠原駅までの約6キロほどを歩んだことにはかわりない。車でも持っていれば、大いに活用するのだが持っていないのだからしょうがない。せいぜい自分の足を使うしかないのだ。

そんなこんなで半日を使用した「田中神社」訪拝は終了。もともと田圃の中に浮かぶような田中神社に接するのが目的だったから、問題はない。秩父鉄道にも乗れたし、文句はない。


参考文献
「式内社調査報告」第11巻東海道6 皇學館大学出版
「武蔵の古社」 菱沼勇著



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