「郷土の鎮守様〜西浦和編〜」<平成17年12月参拝・翌1月記載>

その1
下大久保ノ諏訪神社」「塚本ノ神明神社」「五関ノ稲荷神社」「宿ノ大久保神社」「島根ノ氷川神社(大宮)

その2
「神田ノ月読神社」「神田ノ身形神社」「上峰ノ諏訪神社(与野)」「上大久保ノ氷川神社」「栄和ノ東神社」「大久保領家ノ日枝神社」



「下大久保ノ諏訪神社」     
(埼玉県さいたま市桜区(浦和)下大久保鎮座・旧村社)

御祭神:建御名方命

創建年代は不詳。信濃国諏訪大社を下大久保の地に勧請。南北朝期の応安2年(1369)に記録のある古社。下大久保村中郷に鎮座していたが、元禄7年(1694)以降に新田が開発されたことに伴って現在地に遷座。新田に当社を移して開発が順調にすすむことを願ったことが推測できる。
明治6年に村社列格。旧別当の曹洞宗浄泉寺は神仏分離によって明治4年に廃寺。
氏子地域は下大久保地区。
荒川羽根倉川岸地域であり、往古は米作には向かない土地であったために、氏子にとって米は貴重品であったという。正月は「隠し餅」として餠つきはすれど「神さまが餅をのどにつかえる」ということで神前には餅を供えなかったという。かわりに祭礼の際には団子を供える風習があるという。

下大久保ノ諏訪神社 下大久保ノ諏訪神社
下大久保ノ諏訪神社 下大久保ノ諏訪神社

家から自転車をこいで、荒川を渡れば西浦和地区に到達できる。そうかけばわかると思うが私は荒川西側の志木市に居住している。
荒川にかかる羽根倉橋を自転車で疾走したら河川敷先の左手に鎮座している神社。川の近くなのだ。
鎮座地は下大久保。JR武蔵野線西浦和駅約3キロ北西。
境内は意外と広い。そして明るい。正面南側の入口は多少狭いが気にしない。諏訪の神さまに本日の無事を祈願して私は自転車で西浦和の駆けだしを開始する。


「塚本ノ神明神社」     
(埼玉県さいたま市・旧村社)

御祭神:天照大御神・素戔嗚尊・他7柱

荒川の自然堤防に立地し、地内を鎌倉街道が通る地。古来、伊勢神宮の神領であったとされる神田地域の南西に位置する。
鎌倉期に勧請されたとされる古社。
明治6年に村社列格。創建に深く関わったとされる、賢聚から数えて15代目の別当・神宮寺の長祐は慶応4年(1868)に榎本伊勢義明と名を改めて復飾。旧別当の神宮寺は神仏分離によって廃寺。
氏子地域は塚本地区。

塚本ノ神明神社 塚本ノ神明神社
塚本ノ神明神社 塚本ノ神明神社

諏訪社から荒川河川敷にそって北上して、県立浦和北高校の北西側に鎮座している。諏訪社からは北西約1キロ。
実は最初に訪れた時は境内で「消防訓練」をおこなっていた。とてもではないが訓練のなかに飛び込んで参拝する勇気がなかったので、一度スルーをして、浦和をぐるっとまわりおわって志木に帰る時に寄り直した神社。でも時系列と立地位置的には「諏訪社の次」なのだ。
こちらも負けずに広い神社。河川敷近くゆえの広さなのかもしれない。非常に開放的なのも河川敷ゆえか。


五関ノ稲荷神社     
(埼玉県さいたま市・旧村社)

祭神:倉稲魂命・伊弉諾命・伊弉冉命・保食命

鴨川右岸に鎮座。五関という地名は、鴨川の水を用水として利用するための堰が地域内に5ヶ所あったことから、という。なかでも現在公園として整備されている千貫樋が最も大きかった。
神仏分離後の明治6年に村社列格。旧別当は東福寺。明治7年に水入の無格社・熊野稲荷合社を合祀。
氏子地域は五関地区。
平成元年より塚本ノ神明社、宿ノ大久保社と当社の三社合同の「神輿祭り」が催されている。

五関ノ稲荷神社 五関ノ稲荷神社
五関ノ稲荷神社 五関ノ稲荷神社

神明社から700メートル北東。県道57号線にそった所に鎮座。鴨川という川に隣接している。
神社規模はさほどに大きくはない。稲荷らしさもないが、村鎮守としての落ち着き里安心感があった。


宿ノ大久保神社     
(埼玉県さいたま市)

御祭神:誉田別命・菅原道真公・素戔嗚尊

創建年代は不詳。
付近に畠山重忠の館があったことから付近は「宿」と呼ばれたという。「宿の城」と呼ばれる城館跡は賀美郡安保氏の一族である安保直実・泰規の関係者が居住していたと推定。武蔵国賀美郡元阿保を本拠とする安保氏は南北朝期に当地を含む大窪郷を領有していたとされる。当社は阿保氏が勧請したものであろうか。
当社はもと宿ノ八幡社。明治6年に村社列格。明治40年に植田谷在家の村社・天神社と白鍬の村社・氷川社を合祀し、大久保神社と改称。
氏子地域は宿地区。合祀後は在家・白鍬地区を含む。

現在の本殿は天明4年(1784)に再建。
境内社・豊栄社(=旧白鍬氷川神社)本殿は嘉永2年(1849)建立。
境内社・稲荷社(=旧在家天神社)本殿は江戸時代後期と推定。
江戸後期に造られた三種の一間社流造が比較できるという点でも注目できる。

宿ノ大久保神社
社頭のケヤキは幹まわり4.25M
宿ノ大久保神社
宿ノ大久保神社
宿ノ大久保神社
稲荷社と大久保神社本殿(右)
宿ノ大久保神社
本殿
宿ノ大久保神社
豊栄社
宿ノ大久保神社
豊栄社と本殿

稲荷社から800メートル北上。同じく県道57号線沿い。鴨川沿いに鎮座。境内は以後には用水路もある。この辺り近隣ではかなり大きめの規模。立派な社殿は三棟。合祀した際の名残であり、三者三様の建築様式を楽しめるという醍醐味がある。かなり長居をしてしまった、非常に居心地の良い神社。境内は細長くて、奧行きもあり樹木もある。社頭のケヤキも見事な気配。


「島根ノ氷川神社     
(埼玉県さいたま市(大宮)島根鎮座・旧村社)

御祭神:素戔嗚尊・建御名方命

当社は弘仁2年(811)の鎮座とされる。大宮の氷川神社に対して姉宮とも呼称されていたという。
第52代嵯峨天皇の弘仁年中に、当初の豪族であった足立太郎秀盛が朝廷の衛士として仕えていたが、丁度そのころに隣の植田谷本村から朝廷に奉られていた采女と、手を携えて故郷の足立郡に帰ってきてしまった。嵯峨帝は直ちに追捕の兵を差し向けたが、地の利を得た秀盛軍に敗れてしまった。そこで足立秀盛は大宮高鼻氷川の神助を謝して弘仁2年に足立の自領の鎮守としたことにはじまるという。
弘仁2年に創建し、承和8年(841)に月宮、貞観4年(862)に諏訪社を勧進したとされる。
植田谷領惣社氷川大明神として篤く崇敬。中世には郡代の伊奈備前守が当社を保護している。
見沼の氷川女体神社と同様な御船遊神事が近世まで近くを流れる鴨川において行われていたという。
当社は神仏習合期の江戸期も神主家が存在した村鎮守としては珍しい神社とされる。明治社格では旧村社。

島根ノ氷川神社
島根ノ氷川神社
島根ノ氷川神社
島根ノ氷川神社
島根ノ氷川神社
島根ノ氷川神社
島根ノ氷川神社
島根ノ氷川神社

大久保神社からさらに県道57号線を北上すると旧大宮地区の島根に到達する。ここで57号線は左にカーブするが、突き当たりには島根ノ氷川神社が鎮座している。距離は大久保社から約700メートル北。西浦和ではないが足を伸ばす。田圃からのびる一直線の道が清清しい。いまは冬だから寂しげだけれども、水田として水を蓄えている時を想像するのが楽しい。水田地帯にこんもりと杜があれば、そこは社という典型例。農耕の神としての安心感がある良い神社だった。


参考
各神社由緒案内等
「埼玉の神社」埼玉県神社庁神社調査団編/埼玉県神社庁



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