小江戸川越を想う
川越の社寺・史跡編

川越夜戦場川越氷川神社
川越城本丸御殿三芳野神社富士見櫓
日枝神社喜多院仙波東照宮


 川越といえば少しは名の知れた街である。でも正直なところ私はあまり好きではない。歴史と文化の街ではあるが、いかにも「埼玉の観光地」という風が強く「作りすぎ」の観がある。ゆえに川越の街を歩こうとは思っていなかったが、川越に用事があった。しかも午前中で用事は片付き、午後は暇になってしまった。成りゆき上、「川越」にいるのだから、ここで川越を見物しなくては阿房のたぐいだろう。
 蔵造りの街並みを抜ける。私はバスの中、まったく知らない土地だけど適当にバスに乗って、適当にバスで降りる。ちかくに「時の鐘」やら「菓子屋横町」という「川越の観光地」があるが、あいにく小学生以来何度も見物したり見物させられたりしているので、かような所には立ち寄らない。私はただ川越の「歴史」を風聞するためにこの地に来ただけだから。



「川越夜戦場」

 川越は「新河岸川」に内周を囲まれ、入間川に外周を囲まれている。いわば典型的に平城の堀の役目をそれらの川が担っている。その内堀的な新河岸側の南岸、川越からみれば北側の外れに「東明寺」という寺がある。普段は寺にはいかない私も趣向を変えて寺に行く。もっとも寺に用事があるわけでなく、その東明寺が日本三大夜戦・戦国三大奇襲戦の一つとされる「川越夜戦場」の跡地とされているから立ち寄ったという訳である。

 天文六(1537)年。台頭著しい北条氏綱(伊勢〔北条〕早雲の子)に川越城を取られた松山城の扇谷上杉朝定は、川越城を奪還すべく山内上杉憲政(関東管領)、古河公方足利晴氏と連合して総勢八万騎をもって天文十四年十月に川越城を包囲した。一方、その時の川越城主であった福島綱成(北条綱成)はわずか城兵三千で籠城。その後半年あまりも防戦しひたすらに援軍を待っていた北条綱成軍は糧食も乏しく危機的状況に陥っていた。そのころ小田原からの援軍として北条氏康(北条氏綱の子)が兵八千を率いて来援。兵力的に川越城兵と合わせても一万千人と、両上杉・古河公方連合軍八万に比し圧倒的に劣る氏康はまず和議を申し込み相手を油断させたところで、天文十五(1546)年四月二十日に夜陰に乗じて奇襲猛攻撃を開始。北条氏康軍が両上杉軍を潰走させ、城内の北条綱成軍が古河公方軍を攻撃。この戦で扇谷上杉朝定は討死。古河公方足利晴氏は古河に敗走、のちに北条氏綱の娘婿でありながら小田原城に幽閉の身となる。山内上杉憲政も上野に逃げ帰るも関東管領の威信を失い、永禄元(1557)年に越後の長尾景虎に関東管領職と上杉姓を譲って隠居。この「川越夜戦」がきっかけで関東における北条氏の地位は盤石になったが、一方で関東管領上杉謙信という余計な敵をも作ってしまった。

川越夜戦場
川越夜戦場跡


 北条の話をする予定はなかったが、武蔵国内にも北条の史跡は多い。私も台頭著しい頃の北条は嫌いではない。今は何もない「東明寺境内」で北条を想い、関東管領上杉氏を想い、古河公方足利氏を想う。全国史的には地味な歴史であっても、関東を揺るがした合戦。そんな各地で群雄が割拠した時代を想うと改めて奥の深さを実感してしまう。だから私はそんな時代が好きだ。



「氷川神社」     
(通称「川越氷川神社」・旧県社)

 東明寺を後にする。一番北までバスで北上すればあとは川越の駅まで南下するだけ。なんとも簡単で単純な発想であった。ただ今いる地点から南下すると「蔵造りの町並み」に出てしまい私の「歴史散策」も無に帰してしまう。ゆえに東に歩く。
 しばらく歩くと独特の空間を感じさせる。木々が伸び伸びと繁る空間。土地を知らなくてもそこに神社が鎮座していると感じさせてくれる瞬間が何よりも嬉しい。

御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
脚摩乳命(あしなづちのみこと)
手摩乳命(てなづちのみこと)

 欽明天皇二(540)年九月十五日鎮座、武蔵国造が大宮氷川神社より分祀、奉斎したという。のち室町時代の長禄元(1457)年、川越城の築城にあたった太田道灌は篤く当社を崇敬し川越城の守護神とした。小田原北条氏滅亡後に関東を支配した徳川家康は重臣を川越城主として江戸北方の守りにつかせ、以後代々の城主が川越総鎮守として崇敬してきたという。なお現在の本殿は嘉永二(1849)年の落成。摂社八坂神社は寛永十四(1637)年三代将軍家光が二ノ丸に東照宮として建立し明暦二(1656)年、川越城内の三芳野神社拝殿に移築され、更に明治五年に氷川神社境内に移築され八坂神社社殿となったという遍歴をもっており、江戸城内の宗教建築遺構として全国唯一の貴重な社殿とされ、氷川本殿共々埼玉県指定文化財となっている。また「柿本人麻呂神社」や太田道灌手植えの矢竹や大鳥居の扁額(勝海舟筆)等が興味深い。

氷川
川越氷川神社
氷川
川越氷川神社
氷川
拝殿
氷川
氷川神社境内八坂神社本殿(江戸城内東照宮遺構)
氷川
本殿
氷川
大鳥居・勝海舟謹書扁額

 川越城のことは次で記す。石鳥居の正面に拝殿があり、奥で結婚式が執り行われているらしい。それも間が悪いことにいま「神前」から出てきたところ。休日の有名な神社では得てして結婚式があったりしていささか困る。困るけれども神社には欠かせない儀礼であり、その主催たる人びとにとっては一生の思い出となる儀礼。私のような通りすがりの人間がどうこういう資格もなく、その瞬間を眺めるのも良しとする。今はしょうがないから参拝をしたあと、撮影は後回しにして摂社巡りをする。摂社もなかなか興味深いのだ。
 おもしろい神社といえばおもしろい。しかしどことなく拝殿の横にカメラが設置してあったりして気分を害する。賽銭泥棒か神社荒しでもあるのだろうか。どうも格が高そうでツンッとしている感じがしてしまう。

**恐縮なことに川越氷川神社宮司様からメールを戴いた。以下抜粋。
>実はあちらのビデオカメラは結婚式の参進、また通年行なわれる祭典の
>記録映像を撮影するためのものでありまして、普段は地中に埋設してあり、
>使用するときのみ組み立てております。決して賽銭泥棒や神社荒しの警備用
>に設置してあるものではございませんので、どうぞお含み下さい


ということで、ビデオカメラの件は私の勘ぐりすぎのようでした。大変失礼いたしました。また再訪したいとおもいます。



「川越城本丸御殿」

 川越城に行こうかと思う。しかして城と呼べるものがないことは百も承知である。
川越城は扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗するために長禄元(1457)年に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城させたものである。やがて北条氏が支配し、武蔵国の支配を決定的にした川御夜戦後に城代として譜代の重臣である大道寺正繁を配置した。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の関東攻略に際し最前線の上野国松井田城を守備していた大道寺正繁は早々と豊臣軍先鋒の前田利家軍に降伏。自ら先鋒として軍勢を先導したため武蔵国内は総崩れとなり川越城は開城した。(武蔵国内で善戦した城は北条氏邦の鉢形城<城兵三千五百で前田利家・上杉景勝・本多忠勝・真田昌幸ら精鋭五万の軍勢を相手に一ヶ月間奮戦>と城主成田氏長不在の忍城<攻勢の石田三成の杜撰もあり小田原開城後も健在であった>ぐらいなもの。大道寺正繁は不忠であるとして小田原開城後に秀吉によって切腹を申しつけられた)
同年8月に徳川家康が江戸に入封した際に江戸城北方の守りの要として重要視され川越城主には重臣を配した。歴代城主には酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保等、老中大老格の重臣が城主となった。
 川越城本丸御殿は嘉永元(1846)年に藩主松平斉典が造営したものである。明治維新後徐々に解体され、現在は大唐破風造りの玄関、書院造りの大広間、移築復元された家老詰所が残っている。

御殿
川越城本丸御殿

 ありがたいのは入場料が100円で良いというところ。今書いたように見るべき所は玄関部分しか残っていないのだが、それでもこの豪壮な玄関は見るべき価値がある。もっとも中に入らなくても外から見れるのだが。



「三芳野神社」     
(旧県社・とおりゃんせ発祥の地)

御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(いなだひめのみこと)
配祀
菅原道真命
誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)

 創立は大同二(807)年と伝えられる。大宮の氷川明神を勧進したとも、京都の北野天神を勧進したともいわれているが定かではない。この三芳野という社名は在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であるからつけられたという。
現在の社殿は寛永元(1624)年に、酒井忠勝によって造営された入母屋造であり、桃山の気風が反映されている社殿。埼玉県指定文化財。

三芳野神社
三芳野神社

 本丸御殿をあとにして近くの三芳野神社に向かう。意外と良い神社。ただ社殿の横でおばちゃん達がお弁当を広げている。こういった雰囲気もたしかに良い神社。だけど写真が撮れなくて困ってしまう。実はこの神社は神社以外の面で有名。童謡「とおりゃんせ」発祥の地とされ「ここは、どこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。」の細道が私の目の前に広がっている。この天神様は川越城の城内に位置しており庶民の参拝は容易でなかったという。庶民は参拝を許されたときに城警護の兵士に監視されながら参詣をすることができたといい、そこから「行きはよいよい、帰りは恐い」(帰り際に城の機密を知った日には・・・/笑)な参道とされたという。



「富士見櫓跡地」

 正直、なんにもないと思って立ち寄ってみた場所。ところがきちんと空間が保存されている。もちろん「櫓」を偲ぶものは何もないし、こんなところに来る物好きもいないのか当然の如く誰もいないけど、高台が残っている。川越城には天守が存在せず、この城内一の高台に三層の櫓が築かれ天守のかわりをなしていたという。もちろん名前から察するに当時は「富士山」が望めたのであろう。もっとも今は密集する住宅地しか望むことは出来ないが。

富士見櫓跡
富士見櫓跡

 高台を登ってみる。意外と高い。この味気なさに独特の味わいを感じてしまう。山頂に御岳神社と浅間神社が鎮守していた。なんとなく居心地が良くてぼーっとくつろいでしまう。この奇妙な空間がなぜだか私の波長とあってしまったようだった。



「日枝神社」     
(旧県社・国指定重要文化財)

御祭神
大山咋命(おやまくいのみこと)

 この地に日枝神社があるのは、喜多院の草創時(天長期の慈覚大師が星野山開山の折=830年)に比叡山坂本の日枝山王社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の「日枝神社(旧官幣大社)」はこの川越日枝神社から分祀した。
 本殿は朱塗りの三間社流れ造り、銅板葺で、規模は小さく質素。建築時期は寛永15(1636)年の火災後の再建か、それ以前の建築かは不明ではあるが、建築の一部に古式造りが認められ室町時代末期頃ともされている。本殿は国指定重要文化財

川越日枝神社
川越日枝神社
川越日枝神社本殿
川越日枝神社

 富士見櫓跡を立ち去り、途中「浮島神社」という、これまた住宅地に埋もつつも、浮島たる雰囲気を醸し出す神社を経由して、川越のメインである喜多院に向かう。その手前に「成田山別院」などがあったりするが、あいにく私的に「歴史を体感する装置」にならなそうなので無視。
 喜多院のすぐ目の前に「日枝神社」がある。当然、いわゆる観光客のたぐいは誰も見向きもしない。ただ一人だけの空間で参拝するのがなんだかうれしくなってしまう。

 社殿の隣りにこんもりとした丘がある。立入禁止でもなさそうなので登ってみる。山頂になにやら碑が立っているので読んでみると「前方後円墳」とある。どうやら古墳だったらしい。古墳なら古墳と下の方に書いてくれればいいものの、上に登って急に悪い気持ちがしてくる。もっともこの札は下からではみえないから、つまりは上に登って読みなさいとの解釈でよいのだろう。下の道路からは私のことを不思議そうに見上げている人もいたりして、急に居心地が悪くなる。しかし重文の本殿を拝む絶好の位置どりでもあったので写真におさめてから古墳を降りる。



「川越大師喜多院」(星野山無量寿寺喜多院・関東天台宗総本山)

 とりあえず私は寺院が嫌いである。なんというか大学が「仏教のうちでも激烈熾烈な日蓮宗系大学」なので、しらずうちに拒絶反応が出てしまう。その結果、いつのころからか「神社趣味者」になってしまったが。今日最初の「東明寺」は無人だったし史跡として訪問したから何も違和感はなかったけれども、喜多院は違う。規模が大きく年中観光客(こいつらは参拝ではない/苦笑)に囲まれ、年中縁日のような騒がしさで屋台がでている。とにかく人が大勢いる時点で気に入らない。今まで私の歩いていた所は誰もいないような場所ばかりだったのでなおさら気に入らない。これらの観光客は「蔵造り通り」を歩いて「時の鐘」を眺めて「菓子屋横町」でうかれて「喜多院」にやってきて「五百羅漢」でも眺めて喜ぶのだろう。
 天長七(830)年に慈覚大師円仁が阿弥陀如来を安置して無量寿寺を開いたのが始まりとされ、永仁4(1296)年に尊海が慈恵大師を勧進して北院・中院・南院等を再興したという。比叡山を初め各地で修行を積んでいた天海が天正16(1588)年に北院に入り北院二十七世を継ぎ、そののち川越に鷹狩りに来た徳川家康と接見して以来、家康及び幕府に信任を集めたという。
 まず「山門」(重文)をぬける。喜多院最古の建築物とされ寛永九(1632)年に天海坊主が建立したものであるという。そうして目についたのが「多宝塔」。寛永十六年完成のものであるという。こちらはなかなかの建築物であり寺院に置いておくのがもったいない気分になってくる。
 寺院の建物はなんていうか知らない。神社的には拝殿だが、とにかく線香臭い建物がある。せっかくだから覗いてみる。あいにく私は参拝する気は最初から持ち合わせていない。ただ石段を登り、煙を頭にかざしている人間を横目にスタスタと歩む。賽銭も投じる気もないけど、せっかく来たのだから手ぐらいは合わせておこう。もっとも神道式にやってやろうかとも思ったがそこは「関東天台宗総本山」。雰囲気が恐くてそこまでの勇気はない。ただ目の前の仏像を眺めて(睨んで/笑)手を合わせておしまい。引き返すことにする。

 隣りに「家光公生誕の間」やら「春日局化粧の間」やらがある喜多院の書院・客院がある。ここで誤解しては困るのだが、別に家光が川越で産まれたわけではない。ただ喜多院が寛永十五(1638)年に火災にあい、三代将軍家光は直ちに再建を命じるとともに、天海坊主の願いを受け入れ江戸城の間の一部が移築されたという経緯を持つだけである。天海坊主の力が後世はこうして寺院の為の観光収入になっているだけである。つまり、その建物に入るには入場料が必要。私は喜多院にも何度となく強制的に来させられ見物させられているので、いまさら入ろうとも思わない。ただ一瞥をするのみである。同様の理由で「五百羅漢」も遠慮する。

喜多院 喜多院
喜多院 喜多院です。
なにが、なにという説明は省略。
寺院なので(笑)

 人の少ない方へと歩いていると「松平大和家廟所」があった。当然の如く此の手の史跡には誰もいない。この松平大和家というのは徳川家康の次男である結城秀康の五男直基を藩祖とする越前家の家柄という。前任地上野国前橋藩から川越藩に転封され、川越城主としては明和四(1767)年から慶応二(1866)年まで七代百年にわたって十七万石を領した藩主の内、川越でなくなった五名(松平朝矩・直恒・直温・斉典・直候)の廟所という。どうにも誰も来ない場所のようで廟所を歩くたびに足元の霜が砕ける。この喜多院の中にも不思議な場所があるようだ。所々崩壊している廟所で、巨大な五輪塔に接しているうちに、なんだかこの松平家が異様に哀れなような気がしてしまった。
 大きな堀がある。現在は裏手にひっそりと残っている堀だが、おおかたかつては寺院周囲に張り巡らし、砦の役割も兼ねていたのだろう。ぼーっと周回して表に戻ってくる。目についたのが「鐘楼門」。重文であり、寛永十(1633)年建立という。これにも誰も見向きもしていないようだが、こういった質素で味わいのある鐘楼もなかなかの歴史を感じさせてくれる。



「仙波東照宮」     
(日光、久能山に並ぶ三大東照宮のひとつ)

祭神:徳川家康公

 喜多院のすぐ隣りに「東照宮」が鎮座している。元和三(1617)年三月二四日より四日間、喜多院において家康の遺骸をとどめ天海僧正が法要を営んだことにより寛永十(1633)年に建設された。現在の社殿は寛永十五年の火災後の寛永十七年に再建されたものというが、明治以降の神仏分離によって衰退し、昭和三十四年の台風によって破損、昭和三十六年に修復されたものであり本殿・唐門・瑞垣・拝殿・幣殿・石鳥居・随身門が国の重要文化財。拝殿は単層入母屋造。幣殿背面は入母屋造、前面は拝殿に直結している。

東照宮
仙波東照宮随神門
東照宮
参道
東照宮
拝殿
東照宮
本殿

 しずかで落ち着いた東照宮。喧噪さが微塵もなく、そして東照宮自体も質素で落ち着いた雰囲気。あの日光のような騒々しさがなくそれでいて東照宮らしい独特の雰囲気を醸し出していた。隣の喜多院のようなばかばかしさもなく、よい環境であった。
 ゆっくりと川越見物をしたところで、そろそろめぼしい史跡がなくなってきた。全然「小江戸川越」らしさが見られない見物をしたような気もするけど、だんだんとばかばかしくなり私の足も、あとは最寄りの東武東上線川越駅にむかうだけだった。


参考文献
『角川日本地名大辞典11埼玉県』昭和55年7月 角川書店
川越市観光案内所発行パンフレット、他各種パンフレット・案内看板等


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