「比企をめぐる」

参考(武蔵国の延喜式内社解説

前篇・吉見

後篇・滑川嵐山
国立武蔵丘陵森林公園など」/「伊古乃速御玉比賣神社」(式内社・郷社)
嵐山」/「鎌形八幡神社」(木曽義仲産湯の清水・郷社)
菅谷館跡」(畠山重忠館跡・国史跡)/「菅谷神社」(村社)



国立武蔵丘陵森林公園など
 11時30分に「高負彦根神社」を出発。自転車でどこをどう走ったかはあまり覚えていないが、とにかく西に向けて走る。
 吉見町から東松山市を横断して15キロぐらい走ったところで滑川町に到達する。この滑川町の東入口が「森林公園中央入口」でもあり、この入口近くに「淡洲神社」というちいさな神社が道しるべのように鎮座している。

「淡洲神社」(村社)
 祭神は誉田和気命・息長足日売命・素盛鳴命。創建は応永二年(1395)とされ、明治四年村社列格。
 別に格別に珍しい神社のわけでもなく、地域の鎮守様。道しるべと休息を兼ねて立ち寄ってみた。

 「森林公園」を横断する道路をまだまだ西へと駆け抜ける。大体2キロ走ると「森林公園の敷地」を抜けきり、熊谷東松山道路を横断する。なぜだか「熊野神社」とある社号標だけがこの道路に隣接しており、さらに進むこと1キロほどで今度は目印的に「熊野神社」が鎮座している。

「熊野神社」(郷社)
 祭神は速玉男命・伊邪那岐命。創建は明かではないが、鎌倉時代頃という。明治4年村社、昭和8年郷社列格。
 ここも地図上の目印のつもりであった。ただ、前を通りかかった瞬間に「境内に入ってみたいな」と思わせる何かがあった。自転車疲れの私をいやしてくれるには、ほどよい環境で、しばしの休息をする。

あわづ
村社・淡洲神社
あわづ
淡洲神社拝殿
くまの
郷社・熊野神社(ステキな参道)
くまの
熊野神社拝殿

 目印的な「熊野神社」からさらに2キロ弱ほど進み、滑川という、地名にもなっている川を渡ると、やっと本来の目的地である「伊古速御玉比賣神社」に到着。13時00分であった。



伊古乃速御玉比賣神社     
(いこのはやみたまひめの神社・式内社・郷社・比企郡滑川村伊古鎮座)

祭神:速御玉比売神(本来の神)・気長足姫命(オキナガタラシメ姫命)・大鞆和気命(オオトモワケ命)・武内宿禰命(たけのうちすくね命)

 仁賢天皇の時、蘇我石川宿禰の子孫が当地を開き、君祖三韓征伐の応徳を仰いで、神霊を祀ったことに始まるというが創建は不明。当初は二ノ宮山(131.8M)上に鎮座していたが文明元年(1469)に現在地に遷座したという。山頂は豊作・降雨を祈る斎場を兼ね奥宮がある。
 当地の周辺は、滑川にそう細長い谷間の土地。山間に数多くのため池が設けられ、古代においても、池があったと推定。「伊古」は「渭後(いご)」、「沼乃之利(ぬのしり)」に通じるとされ、祭神の速御玉比売神は「渭後」に坐す姫神とされる。
 また当社の神を「淡洲明神」とし、安房国一の宮「安房神社」の祭神・天比理乃当スの異名という説もある。安産の神として比企郡内の「箭弓神社」ともども崇敬されている。(角川地名大辞典・境内看板ほか)

いこ いこ
伊古乃速御玉比賣神社
鳥居の両脇に看板、賑やかです(苦笑)
社頭のポールが豪快です(笑)
いこ
伊古乃速御玉比賣神社・拝殿
いこ
伊古乃速御玉比賣神社・本殿覆屋
いこ 伊古乃速御玉比賣神社旧座地
二ノ宮山(131.8M)
さすがに登ってみようとは思いませんでしたが(笑)

 神社の周辺は「丘陵地」。ちょっとしたアップダウンと沼地が多い場所。立地条件は吉見に鎮座していた埼玉県内の式内社と似たような環境。駅からも遠く、レンタサイクルでなければまず来ないであろうと思われるような場所。社頭の前の畑では、手入れをしているご老体が1人。突然やってきた私を気にもせずに畑に身を沈めていた。
 境内の社叢は埼玉県指定天然記念物。さすがに緑深く覆われており、参道内あ薄暗い。神社にはこの緑の暗さと、拝殿前の日光がよく似合う。
 神社の詳細を知る。もともとは「二ノ宮山」という山に鎮座していたらしい。私の手元の地図にも「二ノ宮山(131.8M)」と記載されており、神社鎮座地から西に750メートルほど先に山影がみえる。さすがに登るほどの元気はないが、山頂には展望台があるという。

 当初の目的である「式内社」めぐりはこれでおしまい。あとはレンタサイクル返却時間までの残された時間を走り回ろうかと思う。せっかく滑川にいるから、この付近に見所があればいってみたい。しかし地図を見る限りでは、森林公園以外には見所がないような気がするので、一気に南下して「嵐山」に行こうかと思う。



「嵐山」
 京都に同じ地名があることで有名な「嵐山」。ただ京都は「あらしやま」であるが、埼玉県は「らんざん」。ゆえに京都で「らんざん」と発音してしまうと、その瞬間に埼玉県人とばれてしまう。もともとは「京都嵐山」に景観が似ていたために「武蔵嵐山」とつけられた地名。

秋桜
比企郡滑川町で撮影(福田付近)
いね
比企郡嵐山町で撮影(鎌形付近)
かわ 比企郡嵐山町で撮影(鎌形付近)
槻川(右)と都幾川(左)の合流地点
合流後は都幾川。
そののち、越辺川・入間川・荒川に連なる。

 伊古乃速御玉比賣神社から一気に南下する。10キロ程度を自転車で駆け抜け、途中の東武東上線線路を横断。さらに3キロほど南下すると、都幾川のほど近くに「鎌形八幡神社」という神社が鎮座している。川のある地点は低地、一方で嵐山の中心は高地。自転車で一気に坂を駆け登るときの気分は最高ではあるが、ここに戻ってこなくてはいけない。登りの時が憂鬱なのはいうまでもない。



「鎌形八幡神社」     
(郷社・嵐山町鎌形鎮座・伝木曽義仲産湯の清水)

祭神:応神天皇
神像として薬師坐像と阿弥陀坐像を祀る。(僧形八幡像)

 鎌形八幡神社は平安時代初期の延暦年間に坂上田村麻呂が宇佐八幡の御霊を迎えて祀った、と伝えられている。
 拝殿は本殿覆屋も兼ねており、拝殿の中に本殿が納まられている。
 当社で有名なものとして「木曽義仲産湯の清水」と伝えられている場所がある。また近隣には源義賢・義仲・義高にまわる説話が多い。嵐山町大蔵には源義賢の墓や屋敷あとと伝えられている場所(大蔵神社)もある。源義仲の父である源義賢はもともとは上野国を本拠としていたが、源義朝と内訌があり、久寿2年(1155)源義朝長子の当時15歳であった悪源太義平によって大蔵の地で討たれている。
 のちに征夷大将軍ともなった悲劇の武将である木曽義仲は義賢が大蔵館に移り住んだ仁平年間(1153)に鎌形館で産まれたと伝えられており、鎌形の清水を産湯としたとされている。
 木曽義仲長子の清水冠者義高は源頼朝の婿であったが、元暦元年(1184)に入間河原で殺された、とされている。
(角川地名大辞典・境内看板)

鎌形 社地前が狭く、アングルが窮屈です。
社地前は狭いけれども、
鳥居の奧は空間がひろがる。
「郷社」にしては、かなり立派な境内です。

境内には「伝木曽義仲産湯の清水」が流れる
鎌形
参道、境内意外と広し
鎌形
手水として「伝木曽義仲産湯の清水」が流れる
鎌形
拝殿兼本殿覆屋(拝殿前、かなり空間狭し)
鎌形
なかなかみごとな彫刻

 私は個人的に「八幡社」と「稲荷社」が嫌い。理由も簡単明瞭でどこにでもあるから。それをいうと「神明社」はどうなのだ、とも言われそうな気もするけれども。それでも「八幡」と「稲荷」は何となく敬遠したい。

 なぜか私は「八幡神社」にいた。もっとも「八幡」に来たかったわけでなく、「歴史伝承の地」にきたかった、だけである。私は埼玉県に居住していながら「木曽義仲生誕説」が県内にあるとは、先日まで知らなかった。名前の通りに「木曽産まれ」なのかと思っていたら、驚いたことにこの武蔵嵐山周辺には「源氏」が根づいていた。あまりにもこの「源氏」に関する歴史に対して無学すぎた私は、いささか反省し立ち寄ってみたというわけである。ただ、伝承として「木曽義仲」が産まれた地とされており真相は明らかではない。それでも、この「鎌形八幡神社」は古社の雰囲気を漂わせて「源氏の守り神」として鎮座している。私の家柄系統はどうやら藤原氏らしいが、そんなことは気にしない。なんとなく人目を忍ぶような地味さ加減が漂うこの「鎌形八幡神社」が好きになってしまった。言葉には表しにくいが、私の感覚的に印象的に「どことなく好きな神社」として脳裏に刻み込まれた。


「鎌形八幡神社」から来た道を3キロ弱ほど北東に戻ると「菅谷館跡」がある。「菅谷館」は畠山重忠館。この周辺は、源氏に繋がる史跡が多かった。



「菅谷館跡」(国指定史跡)
 都幾川北岸に位置し、三方は谷がめぐる天然の要害となっている。館築造年代は明かではないが、大里郡川本町の畠山館に居住していた畠山重忠が鎌倉街道沿いの菅谷館を建造したと伝えられている。以後、畠山重忠は北条氏に謀殺されるまでの20年を菅谷館で過ごしたという。
 その後は畠山重忠未亡人を妻とし名跡を継いだ岩松義純(足利義兼の子)と子孫が菅谷館に居住したと推定されているが不明。室町期までは管領家の畠山氏一族が関係していたとされるが、山内上杉氏・扇谷上杉氏の対立や小田原北条氏の狹間で、いつしか菅谷館の名前は歴史から消えてしまった。
(角川地名大辞典)

 畠山重忠は長寛2年(1164)に大里郡川本町の畠山館で生誕。畠山氏は秩父氏の一族であり、武蔵国を代表する豪族であった。18歳で畠山一族の代表となるとこれまで属していた平氏から離脱し源頼朝に従うことを決断。以後、源頼朝に従い、木曽義仲・平家・奥州藤原氏と戦い多くの戦功をあげた。その後は、鎌倉幕府御家人として源氏を支えてきたが、元久2年(1205)に幕府の権力争いに巻込まれ畠山重忠の息子重保は北条時政に謀殺。自身も北条義時に攻められ二俣川(横浜)で討ち死にした。42歳であった。

 現在は国指定史跡として保存され、三の丸付近は「埼玉県立歴史資料館」が建てられ、菅谷館の歴史をいまに伝えている。

菅谷
菅谷館跡
菅谷
畠山重忠石像

 中世期の関東武士の館跡とはいうが、今の姿は戦国期のものらしい。もっとも、そんな事は関係なく私は単純に「畠山重忠」という人物を知りにきた。奇しくも木曽義仲一族と同郷に畠山重忠館がある、というのも意外だった。県立資料館に入るのを後回しにして「館跡」を散策する。敷地内には畠山重忠像があったが、これも意外に「平服」であった。なんとなく「軍装」が定番かな、と思っていたので。
 館跡はよく整備保存がなされている。同敷地に「県立歴史資料館」があるからだろう。資料館の入館は50円というありがたい料金。料金が安いのは良いことだが、名前負けしていた。「埼玉県立歴史資料館」というよりも「比企歴史資料館」と呼称した方がいいような、つまり私のめぐってきた「比企郡内」に集中した展示。ひさしぶりの「小さな歴史」は、なにやら見応えがあるような、どうでもいいような、でも長居したくなる展示がされていた。楽しかったのが「男衾三郎絵詞」の物語(対称的な比企次郎と男衾三郎の物語)を絵巻さながらにスクロールさせて解説してくれる展示。もっとも史学科出身の私だから長居するのであって普通の人にはつまらない展示だろう。


 「県立歴史資料館」に長居しすぎた。気が付いたら一時間近くを菅谷館と資料館で過ごしていた。もっとも予定らしい予定はない。あとは北上途中に一ヶ所だけ寄り道しようと思っているだけ。



「菅谷神社」     
(村社・嵐山町菅谷鎮座)

祭神:大山咋命・保食命・菅原道真命・須佐之男命・畠山重忠命

 当社は畠山重忠が、武運長久の守護神として建久元年(1190年)に近江の日枝神社から勧進し「日吉山王大権現」と称していた。
 明治4年に村社に列格すると、日枝神社、さらには菅谷神社と名称変更した。

菅谷
村社・菅谷神社
菅谷
村社・菅谷神社

 菅谷館の北500メートルほどの所に鎮座している。格別珍しくない「村社」ではある。普通なら、「日枝神社」分霊神社として単一では扱わないし、軽く流すところではあるが、今は「菅谷神社」という当地にしかない神社。どこにでもある、というわけにもいかない。この神社で注目したいところは、祭神に「畠山重忠」が祀られているということ。わたしもわざわざそのためにやってきたようなものである。
 やけに細長い神社で、夕暮れの太陽が眩しいばかりに拝殿にさし込んでくる。こういう環境は撮影には困るが、まあ気にしないことにする。


 時間は16時になろうとするころあい。東武東上線森林公園駅でレンタルした自転車は武蔵嵐山駅でも返却できる。そして、今いるところから北東500メートルのところに武蔵嵐山駅がある。あとはゆっくりと返しに行くだけだった。
 自転車の走行距離は約55キロ。レンタル時間は7時間。広範囲で密度が薄く、かなりピンポイントになってしまった。どうにも、ムラが多すぎるのがおもしろくないが、しばらくはこの地にはやってこないだろう。
 式内社4社に、城跡2つに、資料館に、横穴古墳に・・・、充分といえば充分かもしれない。
 どのみち、あとは自転車を返却するだけだった。



<参考文献>
「角川日本地名大辞典・11埼玉県」
「埼玉県立歴史資料館パンフレット各種」
「各神社・各史跡解説看板」

<あとがき>
 ちょっと、時間と書く気がなくて「中身が少ない」紀行文になってしまいました。・・・頑張ります。
 「比企をめぐる」とかいいつつ、全体を巡れていないことは、まあいつもどおりです。
 次回作の予定は・・・ちょっとありません。執筆予定をなるべく消化していきます。




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