「武蔵の古社を想う・多摩の古社編」

参考(武蔵国の延喜式内社解説

目次
阿伎留神社」(式内小社・郷社・あきる野市五日市町鎮座)
二宮神社」(武蔵国二の宮・郷社・あきる野市二宮鎮座)
小野神社」(武蔵国一の宮・式内小社論社・郷社・多摩市一之宮鎮座)
小野神社」(式内小社論社・郷社・府中市住吉町鎮座)



はじめに
 今回はまったく計画にない予定であった。正直なところ神社を参拝する気はなかったが、たまたま手元に「土日乗り放題キップ」があった。せっかくの乗り放題ではあれども「日曜日」にしか使うつもりしかなく、土曜日は昼寝でもしようかと思っていた。ただ、それもおもしろくないので、極力疲れないところを探してみる。探したけれども計画を立てるのも面倒になってしまい、当日まで全くの白紙であった。
 この日の午前中に仕方がないから東京の地図を持ち出し、駅からほど近くにある神社でも探してみる。関東近郊で興味があった有名神社はあらかた参拝してしまっていたので、あまりおもしろくない。いくら有名でも人が混んでいるところはなおさら嫌で興味はない。しかたがないから人の少なそうな地味なところに行こうと思う。
 武蔵国の延喜式内社をまとめた都合上、そして生活拠点が武蔵国にあるのだからという単純な理由で、武蔵国の延喜式内社でも少しずつ制覇しようかと思う。本音を言うと、武蔵国二の宮で官幣中社の「金鑽神社(かなさな神社)」にでも行きたいとは思っていたが、この神社は駅から遠い。遠い故に疲れる。今回は疲れたくないと言う理由から、「多摩」が眼に止まった。ただそれだけのことで深い意味はない。あえていうなら、地味な「武蔵一の宮」をこの眼で見てみたかったということだけ。



阿伎留神社     
(延喜式内小社多摩八座筆頭・郷社・あきる野市五日市町鎮座)

御祭神
大物主神(オオモノヌシ神)
味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ神)
建夷鳥神(タケヒナトリ神・アメノホヒ神〈出雲国造の祖〉の御子)
天児屋根命(アメノコヤネ命・中臣祖神)

 多摩川最大支流あきる川を見おろす段丘の上に鎮座している。創建年代は不詳。阿伎留神社は延喜式では多摩八座の筆頭に位置し、また「三代実録」光孝天皇天慶八(884)年に従四位下の神階を賜ったことが記載されている。武蔵国内では同二(878)年に氷川神社が正四位上、秩父神社が正四位下を賜っていることからも当社の重要性がわかる。武将の信仰も篤く平将門討伐に際して藤原秀郷が戦勝祈願を行い、また鎌倉以降は源頼朝、足利尊氏、後北条氏、徳川家等の信仰が篤かった。
 明治の社格では郷社。社殿は天保元年の五日市大火で焼失し、明治二一年に再建したものという。
 なお、宮司家はアメノホヒ命17世の末裔とされる武蔵国造家に連なっており、代々「阿留多伎(有竹・在竹氏)」が宮司を務めてきたという。(1989年時点では74代という)

式内社・阿伎留神社鳥居 式内社・阿伎留神社拝殿
式内社・阿伎留神社本殿
 式内社:阿伎留神社

 左上:鳥居

 上:拝殿

 左:本殿


 家からの最寄り鉄道である「JR武蔵野線」を西国分寺でのりかえ、立川・拝島を経由して「JR五日市線」に乗り込む。用事がなければ間違いなくこんな路線には乗らないだろう。だいたい、府中以西の西東京地方(多摩地方)には極めて縁のない生活を送っている。たぶん今後も、この地域には用事はないだろう。とにかく終点の「武蔵五日市駅」で降りる。一応「終着駅」。ホームの先は車止めレールになっている。しかし高架の駅。私の想定していた終着駅とは雲底の差であり、近代的な駅が私を待っていた。
 駅前で唐突に感覚を失う。地図を見れども、いまいちわかりにくい。駅に併設していた「観光案内所」にて「阿伎留神社」までの案内を請うてみると、「駅前を右に歩いて、あさひ銀行のところで左にあるけばありますよ。歩いて10分ぐらいです。」とのこと。
 このかつての五日市町(現在はあきる野市という)が「五日市憲法」草案の地である。教科書的にいうと明治初期に各地で40種ほど起案された「私擬憲法」のひとつであり、別名は「日本帝国憲法」ともいう。東京五日市の学芸講談会のひとり、千葉卓三郎が起草したもので、国民の権利保障に力点が置かれていたという。
 駅前は首都圏近郊の立派な駅ではあったが、少し歩くとふるびた宿場町風の様相を釀し出してくる。江戸の脇街道であった五日市街道はいたって静かであった。ちょうど雨上がりということもあり、すこし寂しげな道をあるくと、うっそうと濡れた樹木に覆われた空間が目にはいる。 
 阿伎留神社表鳥居のある場所はいたって狹く、鳥居を抜けると右手に拝殿がみえる。空間の狭さが体感できる配置であった。拝殿自体は明治期の建築ではあったが、そんなに真新しさは感じられなかった。「延喜式内社」という自負が伝わってくるかのような安定感が「やしろ」から漂っていた。
 境内には誰もいない。雨上がりの風景。濡れる木々に囲まれる神社は、どことなく奇妙な空間であった。すくなくとも長居をしたくなる環境ではなかった。



二宮神社     
(武蔵二の宮・郷社・別称「小河神社」・あきる野市二宮鎮座)

御祭神
国常立尊(クニノトコタチ尊・神世七代の神)

 二宮神社は明治期までは、小河大明神・二宮大明神と称していた。府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮・大國魂神社)所祭神座の第二席に「二宮 小河大神」と記載されることから「武蔵二の宮」とされている。
 創建年代はあきらかではないが朱雀天皇の御代に、藤原秀郷が天慶年間(938−947)の平将門討伐のために関東出陣した際に当地で戦勝祈願を行い、社殿を造営したとされている。その後も、建久年間(後鳥羽天皇の代)に源頼朝の寄進、天正元年(正親町天皇の代)に北条氏政も寄進。また北条氏照(氏政の弟・武蔵滝山城主)は当社を祈願所とし篤く崇敬したとされる。
 明治三年に社号を二宮神社と改称し、郷社に列せられている。現在の社殿は江戸期の建立。
 社地のある付近は武蔵七党の1つ、西党の二宮氏の本拠地とされ、台地上に土塁・空濠の遺構がある。また鎌倉・室町期の大石氏の居城であった二宮城は二宮神社の境内地であるとされている。(「二宮神社並びに城跡」として東京都指定旧跡)

武蔵国二の宮・二宮神社鳥居
武蔵国二の宮・二宮神社鳥居
二宮神社拝殿
武蔵国二の宮・二宮神社拝殿


 JR五日市線を「東秋留駅」で降りる。阿伎留神社にせよ二宮神社にせよ、私は東京都区外の詳細な地図は持っていないので、駅前の地図だけがたより。とりあえず駅前の地図を見ると広域すぎて載っていない。困ったことに「滝山城趾」への行き方が書いてある。私としても関東有数の城趾遺跡であり、北条氏照の居城であった滝山城に食指が動いてしまうが行くわけにもいかない。
 周辺住宅地図のようなものをみると、すぐそこに書いてあった。駅前を右にでて五日市街道との交差点を左に行くと、それこそ小振りな城趾のような高台に「二宮神社」があった。徒歩にして3分程度という近さであった。五日市街道を挟んだ反対側には水が枯れたことがないとされる神社の神池である涌水池があり遊歩道が整えられている。その遊歩道をあるいけいくとどうやら「滝山城趾」にいけるらしい。すくなくとも案内看板はそう書いてあるが、滝山城趾にいくほどの時間的ゆとりはない。
 「郷社 二宮神社」とかかれた社号標を眺めながら石段を昇る。境内地は予想よりも広々としており、子どもたちが長閑にボール遊びをしている。改めて考え直してみたら、子どもが神社で遊んでいる姿をみるのも滅多にないような気がした。それだけに、この神社は憩いの場所として機能している証拠であり部外者ながらうれしくなってしまう。もっとも撮影の邪魔だったりするのだが・・・。
 拝殿自体はそんなに古さも感じず、普通に一般的な神社の樣相。本殿は修復工事中らしく、接近することが不可能。遠望したかぎりでは「江戸期の再建」というのもいまひとつ実感できない。もっとも修復工事中なのでなんともいえない。
 別に神社自体から「武蔵二の宮」という風格は感じられない。それよりも祭神が「国常立尊」というところがおもしろい。私の感覚でもこの神様を祀っている神社に参拝するのは初めてであった。だからといって「神様」を意識して参拝する人はあまりいないのではあるが。



小野神社     
(武蔵一の宮・式内小社論社・郷社・多摩市一之宮鎮座)

御祭神
天乃下春命(アメノシタバル命・ニギハヤヒ尊に供奉した神・オモイカネ神の御子(アメノシタバル命が秩父国造の祖ともいう)ともいう)
瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)
イサナギ尊・スサノヲ尊・オオナムジ大神・ニニギ尊・ヒコホホデミ尊・ウカノミタマ命

 小野神社の創始は安寧天皇十八年二月(約2000年前)、または八世紀中頃と言われているが、いずれにせよ定かではない。光孝天皇元慶八年(884)には正五位上に神階が進められた記録があり、延喜の制では式内小社として名を連ねている。
 もともと多摩郡の小野牧は陽成上皇の御料牧であったが、承平元年(931)に敕旨牧に編入されている。この牧を経営し、別当に任じられた小野氏が奉斎してきたのが小野神社であった。中世には武蔵国衙に近在する神社の筆頭として、また府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮)所祭神座の第一席に「一の宮 小野大神」と記載されることから「武蔵一の宮」とされている。
 多摩市(南多摩郡)の小野神社小野神社は神域3800平方メートル、大正十五年の失火後の再建という。

式内社・小野神社鳥居(多摩)
式内社・小野神社鳥居(多摩)
式内社・小野神社拝殿(多摩)
式内社・小野神社拝殿(多摩)
式内社・小野神社本殿(多摩)
式内社・小野神社本殿(多摩)
式内社・武蔵国一之宮小野神社・扁額
式内社・小野神社扁額(多摩)


 「二宮神社」訪問後に、JR五日市線で拝島・立川まで戻り、JR南部線で分倍河原駅へ。そこから京王線にのりかえ「聖蹟桜ヶ丘駅」で下車。この桜ヶ丘という歴史や文化が微塵にもかんじられない駅名から察せられるとおり、ニュータウンの街であり東京のベットタウン。五日市の山奧から出てきた人間としてはもはや「大都会」としかいいようがなかった。
 ただこの駅名にもあじわいはある。「聖蹟」とわざわざ異色な単語を冠している。この駅からは若干遠いが、多摩市内には「聖蹟記念館」という場所もある。すなわち「聖なる史蹟」。明治14年以来、たびたび  明治天皇がウサギ狩・アユ漁等の行幸を行い、明治15年5月に付近が宮内庁の御猟場に指定され禁猟区になった。その後、昭和5年に聖蹟記念館が建設されたという経緯をもつ。
 今は「京王帝都電鉄」の街。デパートもバスも京王の中で目的地を探す。駅前を北東に進み、しばらくすると「神南せせらぎ通り」という小道と交わる。名前から察するに、このまま進めば間違いなく「小野神社」に到達できるだろう。
 駅から歩くこと5分程度で、木立を感じる。私の予想よりかは広い境内。しかし「武蔵一の宮」という格を考えると手狭のような空間。それでも、郷社として考えれば充分に広い空間の中に西門と正門、それぞれに神門があり、真新しい「やしろ」が鎮座している。正面の真新しい随神門を抜けると真っ赤な拝殿と本殿がある。拝殿の上には「武蔵国一之宮小野神社」という扁額が掲げられており、ようやく「一の宮」の格を実感する。ただ、「やしろ」からは、歴史の空気を感じとることは出来なかったが。



小野神社     
(式内小社論社・郷社・府中市住吉町鎮座)
御祭神
天乃下春命(アメノシタバル命)
瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)
 創立年代は不明。
 小野神社に祀られている祭神のアメノシタバル命はニギハヤヒ命が河内国に降臨した際に供奉した神という。兄武日命が初めて、この県の国造となったときに祖神として多摩郡に勧進し祭守したと伝えられている。

式内社・小野神社(府中)
式内社・小野神社(府中)
式内社・小野神社社殿(府中)
式内社・小野神社(府中)


 この近隣に小野神社は幾社かある。最も有力な説として多摩市にある小野神社が式内社・武蔵一の宮といわれているが、それでも「論社」(幾つかの論がある社の意)でしかない。この多摩市一之宮の小野神社は多摩川の南部、つまり「南多摩」に位置している。そして同じような対岸、多摩川の北部「北多摩」である府中市にも小野神社がある。まだ時間もあるし、対岸なので行ってみようと思う。
 京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」から一駅先の、多摩川の対岸である「中河原駅」で降りる。駅前の大通り(鎌倉街道)を直進し、中央自動車道(高速道路)と交差するあたりに、10分程度歩いたところに北多摩の小野神社はいたって地味に鎮座していた。
 地味で小さな神社。村の鎮守様程度の感覚だが、それでも拝殿には「延喜式内小野神社」と扁額が掲げられている。この額がなかったら、ここまでやってきた私にしても、まったく意味が見いだせないだろうと思われる。ただ式内社論社とされる神社をこの目で見る。それだけの為にやってきた。なんとなく空気の寂しさを実感してしまう。小さなやしろだけど「郷社」ではある。
そこはかとない気配を抱きつつ、家路につきたいと思う。



あとがき
 足かけ一週間で、原稿用紙換算約12枚。昔と比べて筆の進みが遅い。どうにも文章が書けなくなった(苦笑)。この先が思いやられる。もう書けなさそう・・・。正直なところ、まあいつものことだが「厭きた」(笑)。
 今回の神社たちは非常に地味です。たまにはこのような人目につかない神社もいいかな、と。
 目指せ、武蔵国式内社制覇・・・。ただし、電車で行けないところは無理(苦笑)。


参考文献
郷土資料事典 東京都 人文社
角川日本地名辞典 東京都 角川書店
日本の神々 神社と聖地 関東 谷川健一編 白水社
神社辞典 白井永二・土岐昌訓編 東京堂出版
他、各神社御由緒書き、及び案内解説版等



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